《創られた賢治から愛すべき真実の賢治に》寂しすぎる年譜
では、昭和2年9月分について賢治の営為と詠んだ詩等を『新校本年譜』から以下に抜き出してみると、
九月一六日(金)〈藤根禁酒会へ贈る〉
九月〈華麗樹種品評会〉
のようになっていて、同年譜から窺える9月の営為はこれだけだった。しかも、下表の通りこの9月は前月よりも詩の創作数が激減、2篇だけだ。
【賢治下根子桜時代の . . . 本文を読む
《創られた賢治から愛すべき真実の賢治に》八月中旬〔推定〕の〈野の師父〉
前回私は、
そのことをあの詩も示唆しているのではなかろうかと、この頃の私は考えている。
と呟いてしまったが、そのことを以下に述べてみたい。
ではまずは、『新校本年譜』がその詠んだ時期を〝八月中旬〔推定〕〟としている〈野の師父〉の中身だが、
一〇二〇 野の師父
倒れた稲や萓穂の間
白びかりする水 . . . 本文を読む
《創られた賢治から愛すべき真実の賢治に》 さて、前回〈和風は河谷いっぱいに吹く〉について考察してみたわけだが、どうも8月の賢治、とりわけ「透明な存在」であったその前半の賢治はそれ以前の詩を多作した約半年間とは明らかに違っているということをそこに感じた。何がこの時賢治にあったのだろうか。
そこで直ぐに思い当たるのが何かということを考えると、私の場合はこの8月8日の松田甚次郎の再訪だ。
小作人になっ . . . 本文を読む
《創られた賢治から愛すべき真実の賢治に》反当に/四石の稲はかならずとれる
ではまず〈和風は河谷いっぱいに吹く〉を見てみよう。
一〇二一 和風は河谷いっぱいに吹く 一九二七、八、二〇、
たうたう稲は起きた
まったくのいきもの
まったくの精巧な機械
稲がそろって起きてゐる
雨のあひだまってゐた穎は
いま小さな白い花をひらめかし
しづかな飴い . . . 本文を読む
《創られた賢治から愛すべき真実の賢治に》 では、昭和2年8月分について賢治の営為と詠んだ詩等を『新校本年譜』から以下に抜き出してみると、
八月八日(月) 松田甚次郎来訪
八月一五日(月)〈増水〉(前年の誤記か?)
八月一六日(火)〈ダリヤ品評会席上〉
八月中旬〔推定〕〈野の師父〉
八月二〇日(土)〈和風は河谷いっぱいに吹く〉〈〔ぢしばりの蔓〕〉(→〈〔もうはたらくな〕〉)〈祈り〉〈路を問ふ〉(→ . . . 本文を読む
《創られた賢治から愛すべき真実の賢治に》 それではここでは、多くの人が高く評価している〈和風は河谷いっぱいに吹く〉のその下書稿である、〈〔南からまた西南から〕〉について先ずその中身を見てみたい。それは次のようなものである。
一〇八三 〔南からまた西南から〕 一九二七、七、一四
南からまた西南から
和風は河谷いっぱいに吹く
七日に亘る強い雨から
徒長に過ぎた稲を . . . 本文を読む
《創られた賢治から愛すべき真実の賢治に》「詩ノート」の場合
さて、この月に詠まれたであろう賢治の詩〈〔あすこの田はねえ〕>や〈和風は河谷いっぱいに吹く>は一般に評価が高いようだ。実際、例えば天沢退二郎氏は、
「〔あすこの田はねえ〕」「野の師父」「和風は河谷いっぱいに吹く」の三篇は、農民への献身者としての生き甲斐や喜びが明るくうたいあげられているようにも見える。
と評して . . . 本文を読む
《創られた賢治から愛すべき真実の賢治に》憂えている?
さて前回私は、
この7月年譜からは、この昭和2年の7月頃は「天候不順」であったということや「非常な寒い気候が続いて、ひどい凶作」であったとということが事実と思われがちだが、はたしてそうと言えるのだろうかという疑問が私にはある。という意味のことを述べた。
そこでまずは、「非常な寒い気候が続いて、ひどい凶作」であることの典拠である福井規矩三の . . . 本文を読む
《創られた賢治から愛すべき真実の賢治に》 では、昭和2年7月分について賢治の営為と詠んだ詩等を『新校本年譜』から以下に抜き出してみると、
七月一日(水) 〈〔わたくしが ちゃうどあなたのいまの椅子に居て〕〉(→〈僚友〉)
七月七日(日) 〈〔栗の木花さき〕〉(→〔さわやかに刈られる蘆や〕〉
七月一〇日(日) 〈〔沼のしづかな日照り雨のなかで〉〈〔あすこの田はねえ〕〉
七月一四日(日)〈〔南からまた . . . 本文を読む
《創られた賢治から愛すべき真実の賢治に》労農党稗和支部の実質的中心人物
結局のところ、この6月においては詩の創作数はかなり減ったし、その他に童話等の創作があったという年譜の記載もない。露とのことではなにがしかのことがあったようだが、肝心のかつての「羅須地人協会」としてふさわしいような活動、稲作指導があったということの裏付けは取れなかったし、その手がかりも摑めなかった。
となれば、これは公にはな . . . 本文を読む
《創られた賢治から愛すべき真実の賢治に》 さて、先に〝5月始め頃『ライスカレー事件』は起こった〟で述べたように、高橋慶舟の「賢治先生のお家でありしこと」に基づけば、
「ライスカレー事件」が起こったのは「昭和2年5月始め頃」とほぼ言えそうだ。
ということがわかった。そして、同じくその「賢治先生のお家でありしこと」によれば、
その後伺った時、俺も一人前の男になったと心の底で嬉しかったとも仰せ . . . 本文を読む
《創られた賢治から愛すべき真実の賢治に》昭和2年の5月始め頃に『ライスカレー事件』は起こった
たまたま『賢治研究6号』を見ていたならば、そこには高橋慶舟という人物の論考「賢治先生のお家でありしこと」が載っていて、次のようなことなどがそこで述べられていた。
雪消えた五月初めのころ宝閑小学校の女の先生の勧誘で先生のお家を訪れました。
小生は二階で先生と話しを致しており、女の先生は下で何かをしてお . . . 本文を読む
《創られた賢治から愛すべき真実の賢治に》 では、ここではこの6月に詠まれたと思われる詩の中から、特に気になった詩を以下にいくつか抜き出して見る。
まずは、月始めの日付の
〈〔わたくしどもは〉
一〇七一 〔わたくしどもは〕 一九二七、六、一、
わたくしどもは
ちゃうど一年いっしょに暮しました
その女はやさしく蒼白く
その眼はいつでも何かわたく . . . 本文を読む
《創られた賢治から愛すべき真実の賢治に》昭和2年6月の賢治年譜より
では、昭和2年6月分について賢治の営為と詠んだ詩を『新校本年譜』から以下に抜き出してみよう。
六月一日(水)
〈〔わたくしどもは〕〉〈峠の上で雨雲に云ふ〉(→〈県技師の雲に対するステートメント〉)〈鉱山駅〉〈装景家と助手との対話〉
六月一二日(日)
〈〔青ぞらのはてのはて〕〉
六月一三日(月)〈〔わたくしは今日死ぬのであるか〕〉 . . . 本文を読む
《創られた賢治から愛すべき真実の賢治に》賢治らしからぬ賢治
さて、この5月には従前のような「羅須地人協会」の活動の記載が全くなかったし、下旬になるとぷっつりと詩の創作が途絶えたと思われる、またこの月の年譜には書簡を出したという記載も一切ない。ということで賢治の営為を知ることはこれでは殆どできないから、この月に詠まれたと思われる詩のなかから、そのヒントを得られそうな詩だけを以下に抜き出して見たい。 . . . 本文を読む