常識について思うこと

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裏切り者との向き合い方

2010年05月17日 | 人生

裏切られたと思うことはあるものです。裏切りというのは、とても残念なことですし、それをもってして、相手を非難したくなる気持ちも分からないではありません。

しかし、私なりには、どんな状況であれ裏切られたことには、常に相手を信じた自分の側にも問題があるものだと思います。これには、いろいろな言い方ができます。つまり、「信じるべき者を間違えた」、「できない者をできると信じた」、「相手を都合よく見過ぎた」等ということです。

-いや、相手が「できる」、「やる」と言ったんだ!-

繰り返しですが、そう言いたくなる気持ちも十分理解します。だからこそ、裏切り行為なのです。しかし、約束を違える人間であることを見抜けなかったのは、自分自身の問題です。大切なことは、その裏切り行為から、それを自分自身の問題としてどう受け止め、今後、どのように自分の生き方に反映させていくかということでしょう。

そして、その対処法は、大きく二つに分かれるだろうと考えます。

ひとつは、引き続き相手を信じるという道です。相手が、自分の裏切り行為を詫びて、今後、二度とそのようなことを繰り返さないことを誓った場合、それを信じてあげるというのも、ひとつの手です。元々、信じていた相手でもありますし、それをもう一回試してみるというのは、何も悪いことではありません。ただし、その結果として、さらに裏切られた場合、それも含めて、自分自身の責任となることは、覚悟しておく必要があるでしょう。そして万が一、それでも裏切り行為が繰り返されるような時には、ふたつめの対処法に移行するのかもしれません。

もうひとつの対処法は、相手の限界を受け入れて、自分自身の相手に対する接し方を変えるというものです。

信じることは重要です。私自身、性善説的思考を尊重したいと思っているので、相手を「裏切らない人間」と信じたいところです。しかし残念ながら、現実問題として、裏切りを繰り返す人というのはいるものだとも思います。こうした人間を信じ続けて、相手に裏切りを繰り返させ、また自分自身もその度に傷付くというようでは、両者にとっての大変な不幸です。したがって、その裏切られた点については、相手を一切信じないことが、重要になってくるわけです。

もう少し別の言い方をすると、相手のあるがままの姿や限界を認めるということです。つまり、裏切り行為を繰り返すというのは、何かが大きく歪んでいるのであり、その歪みは、その人間に対して、過大な期待がかかってしまっていることに起因しているかもしれないということでもあります。つまり、「できない人間」は、きちんと「できない人間」として認め、それに相応しい処遇をすることが大切だということです。

「相手を信じること」と「相手を認めること」は、どちらも大切なのです。

裏切り者を「裏切らない者」と信じるのではなく、そういう行為をしてしまう人間として、そのあるがままの姿を受け入れた時、相手に対する見方は、はっきりと変わってくるでしょう。そのことによって、裏切り者は、将来における「裏切る者」ではなくなるのです。自分が持っていた過大な期待が外れ、その限界がはっきりした上で、相手が見えるようになれば、相手を苦しめることも、自分が傷付くこともなくなります。

当然のことながら、過度な期待をせず、限界がある人間としての相手に対しては、それに相応しい処遇というものが、自ずと決まってくるはずです。そして、そのように処遇を変える、接し方を変えるということは、誰の力に頼ることもなく、明らかに自分自身の力でできることであると言えます。

このように考えれば、裏切り者に対して、カリカリと怒る必要はなくなります。どのような状況で裏切られたとしても、それはあくまでも自分自身の問題であり、自分自身の力で解決できる問題なのです。

これからの時代、社会のあらゆるところで、数々の難題に直面することになるでしょう。そうなると、何かと「裏切られた」、「約束を破った」等という話が多くなるような気がしています。しかし、そう嘆くだけでは何の解決にもなりません。裏切り行為に遭っても、ただそれを嘆くのではなく、自分自身の力によって、物事を前進させることができれば、必ず未来は拓けていくように思うのです。

《おまけ》
過大な期待、安易な信頼は人間を歪めてしまうものだと思います。アニメ、「喰霊-零-」に登場する黄泉と神楽の姉妹、とても好きだったのですが、黄泉が悪霊に化けてしまった原因は、神楽の「黄泉は人を殺めていない」という安易な信頼にあったように考えます。神楽が、黄泉が人を殺めてしまっている事実を認め、それはそれとして、黄泉と接することができたら、黄泉が悪霊に堕ちることはなかったと思うのです。もちろん、その流れの中で、神楽は黄泉を冷遇することになるのかもしれません。ただそれでも、それが最終的なハッピーエンドに繋がるのであれば、とても喜ばしいことだと思うのでした。

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9 コメント

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同レベルに捉えない (pinky)
2010-05-17 19:37:25
良くわかります。裏切られた者はそれを見抜けなかったことについては自らそのリスクを取ったわけですから現実あるがままを受け入れるしかないですよね。裏切り者に対しては、勿論付き合わないやり方もありますし、またもし付き合わざるを得ないのならば、決して同レベルでいる必要もなく、あぁ気付かないなんて、何と駄目で可哀相な者だろう、まあ精一杯頑張ってくださいね、でも何があっても知りませんよ、どうぞご勝手に、として割り切って付き合えば良いでしょう。そういう大きな心で余裕を持って生きてゆけば、裏切りを何度も経験し傷ついた者自身は、結果として傷ついた分、大きく成長するのだと思います。
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その通りです (竹内一斉)
2010-05-17 20:08:02
pinkyさん、コメントありがとうございます。

はい。私がお伝えしたいこと、きちんと伝わっているように思います。相手を批判、非難せずとも、真に自分が正しければ、自ずと結果がついてくるのだろうということです。むしろ、言葉でやり合うよりは、沈黙の結果で明暗をはっきりさせることの方が、お互いのためだとも思ったり・・・。
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沈黙 (Unknown)
2010-05-17 22:33:58
沈黙は金。じっくりと裏切った結果(経過もね)が齎すもの全てを拝見させていただこうか、ぐらいがちょうど良いんでしょうね。
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裏切られたのですか? (エコ)
2010-05-17 23:51:39
知らず知らずのうちに人を裏切っているかもしれない・・・ それも恐ろしい気がする。
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やられました (竹内一斉)
2010-05-18 05:47:45
エコさん、コメントありがとうございます。

絶対に許せないことに対しては、表面上は極めて穏やかに、でも心の奥底ではバッサリ斬るということになるのだろうと思います。

もちろん、逆もあり得るわけですから、自分自身の生き方も、それなりの緊張感を持って・・・ということになりますね。
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ちょっと違う (からな)
2012-12-16 15:28:31
この話はあらかじめ
「信じてるぞ、出来るんだな!」
と責任転嫁してる人に話を限定していますよね。信じるしんじないにかかわらず、一般常識的に「あの人は信用できない」ってやるのがいじめだとか嫌がらせだとかいわれてしまう場合は?嫌だといっても「ほらほらそんな事いわずに!」と強制されてしまう場合は?
たとえば警察は馬鹿で不祥事が多いですが
事件になりそうな事って自分で判断せず警察を挟みましょうってなりますよね。そこであり得ない対処をされても、それはおかしい、裏切りだ、って思うの変ですか?
理解できるだろうな?と期待するのもおかしいですか?
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どうでしょう (竹内一斉)
2012-12-16 16:32:27
からなさん、コメントありがとうございます。

私としては、責任転嫁している人に話を限定しているつもりはありません。あるいは、「何を裏切りと感じるか」という感性の差もあるでしょう。しかし、例えば警察にせよ、それを作った国家の出来上がったプロセス、さらには人類の長い長い歴史に目を向ければ、たとえ警察といえども、私は自ずとその限界を受け入れざるを得ないと思っています。それを受容する、しないの問題は、各個人の問題かもしれません。ただ少なくとも私は、そのような思考プロセスを踏んで、本稿を書きました。そして、そうした思考のうえで、自分自身も何か行動しなければいけないと思っています(例えば、警察がバカでしょうがないのなら、それに代わる仕組みを大真面目に作ろう、と考え、行動するのが大切なのではないかと考えます。このあたりが、「責任転嫁」で片付けないという論拠かもしれません)。

「理解できるだろうな」と期待する、ということがおかしいとは思いません。その内容が何であれ、期待するという行為は、人としてあって当然だと思います。同時に期待した結果は、例外なく、その人自身が責任を持つようにできている・・・私は、そういうことだと思っています。
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ありがとうございました! (のりこ)
2013-02-16 14:28:52
気持ちが楽になりました。まさしく、期待していた複数の人間から、卑劣な方法で陥れられ、裏切りを受けました。その後、詫びられ、また信じることに。しかし、結果は…。最近の出来事ですが、その中の一人に対して、相手の限界を見極め、切り捨てたら楽になりました。

そして、もう一人の問題が浮上してきました。2年半かけて、陥れられた立場から、地道に自分の足元を照らし、明るい立場に泥沼から這い上がりましたが、また陥れられそうになってしまいました。どうしたものかと悔しさとともに、深く痛みを感じ、正直、限界かなと。 向き合い方、もう少しで整理できそうです。
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よかったです (竹内一斉)
2013-02-16 15:23:19
のりこさん、コメントありがとうございます。

いろいろとおありだったようですね。いずれにせよ、どんな問題にせよ、その責任や原因が相手ではなく、自分自身の問題として捉えることで、糸口が見えてくるのかもしれません。

いい方向にいくとよいですね。
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