常識について思うこと

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ウイグル暴動に思うこと

2009年07月10日 | 社会

去年のオリンピック前にチベットでの暴動が問題になった中国で、今度は新疆ウイグル自治区での暴動がニュースとして取り上げられています。

中国という国は、10億人以上の人口を抱える超大国であり、アジアの盟主(あるいは世界の覇権国?)として君臨せんばかりの勢いを持っていると言われたりもします。たしかに、同国の政治や経済を含めた様々なシステムは、中央統制型の仕組みで動いており、それらがうまく機能している間は、それこそが中国の強みであると言うことができるでしょう。しかし逆に、少しでも歯車が狂い始めると、そうしたシステム全体が、根幹から崩れ去るような脆弱性も内包しているのではないかと考えるべきではないかと思います。

何事にも犠牲がつきものです。現在の中国という国を確立するまでには、実に大きな犠牲を払ってきたと言えると思います。歴史的に、王朝が変わる度に繰り広げられた、自王朝の正当化の過程の中で、前王朝に関係する多くの人々が犠牲になってきたと言われています。つい数十年前においては、文化大革命と呼ばれる一大運動がありましたが、これは多くの人民を巻き込んだ粛清運動でもありました。文化大革命に関係する犠牲者は、数千万人規模にも及ぶと言われますが、逆の見方をすれば、そのように力でねじ伏せるような国家形成であったが故に、それだけ強大な国になり得たということもできるのかもしれません。そしてまた、このような中央統制型での国家形成というのは、ある意味で、中国的であるとも言えるような気がします。

特に少数民族については、もともと中華思想という言葉があるくらい、中央統制的な姿勢が強く反映されていると考えて然るべきですし、そうした歴史が現政権の背景にあるということは、紛れもない事実でしょう。これは良し悪しの次元の問題というよりも、少なくとも、そうした歴史があったということを認識している必要はあるであろうということです。

今回のウイグル自治区での暴動が、具体的に何に関する問題を巡り、どのような事柄をきっかけに勃発したものなのか、一連の報道を見ていても、なかなかはっきりしない部分があります。ただ、おそらくそれは、ここ数ヶ月、数年間での出来事を背景にしているというよりも、今日の「中華人民共和国」という国の成り立ちや歴史に、深く関係している問題が背景にあると思えてならないのです。

このように考えていくと、果たして、中国という国が強大である(かのように見える)ことばかりに目を奪われ、同国こそがアジアの盟主、世界の覇権国かの如く論じるのは、若干、先走りすぎのような気がしてなりません。

もっと端的に言えば、今回のように自国内において、武力衝突の問題を引き起こしてしまうような国が、果たして本当に世界をリードできるのかということです。特に、これからの時代における世界平和の実現については、前世紀と社会構造が大きく変わっており、武力を持って武力を制することが、極めて困難であることを十分に認識する必要があります。つまり、いかに武力行使を伴わずに、平和を実現するかということが求められてくる時代なわけです。私自身、この課題については、モバイルインターネットを積極的に利用した、オープンな情報通信ネットワークこそが、極めて重要な役割を果たすであろうと考えております(「四次元戦争の時代」参照)が、こうした発想と行動なくして、次の時代をリードしていくことは不可能ではないかと思うのです。

然るに、中国という国は、到底その域には達し得ず、むしろこれまでの成り立ち、そこから派生する様々な問題について、まさにこれから向き合って解決していかなければならないフェーズにあると考えます。それは、見方によっては、「今日の強大国」の地位を獲得するために、中国が自ら背負った「負の遺産」の整理と言えるかもしれません。2008年のチベットに続き、今回のウイグルでの暴動事件は、その序章であり、これからしばらくの間、中国ではこうした傾向が続くような気もしています。

仮に、もしそうだとしたら、一連の「負の遺産」の清算が終わったとき、時代は新しくなっていることでしょう。そして、その新しい時代における国家の概念の変化にあわせて、現在の中国の土地に住む人々が、担うべき役割も、きっとあるのではないかと思います。

私は、一人の日本人であり、よその国の事情に首を突っ込むことができない以上、日本という国の中で、次の時代に向けた枠組み作りのための準備を淡々と進めていきたいと思います(「世界のリーダーたるべき日本」、「産業から始める理由」参照)。

《おまけ》
私は、自らを世界の中心と考える「中華思想」そのものは、大変立派な考え方なのではないかと思います。それは「高いプライド」を持つという意味において、けっして非難されるべき考え方ではないでしょう。ただし、それを他者に押し付け、他者の価値を否定してしまった瞬間、おかしな方向に走ってしまうのだと考えます。お節介をせず、自分の内なるところで、静かに「高いプライド」を保てていれば、きっと「中華思想」は、もっともっと素晴らしい考え方として、受け入れられるようになるのではないかと思えてなりません。

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