常識について思うこと

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お賽銭モデルの提唱

2009年11月25日 | 科学

世界経済のほとんどは市場主義で回っています。その市場において取引される財は、需要と供給のバランスで価格が決まるという話があります。右図のように財の価格を縦軸、数量を横軸にとった場合、需要と供給の関係から均衡する点(需要曲線と供給曲線が交わる点)が定められ、それから均衡価格と均衡数量が求められます。このうちの均衡価格が、いわゆる私たちが市場において取引で用いる「価格」です。そして供給者の収入は、均衡価格と均衡数量を掛け合わせたオレンジ色の面積の部分になるわけです。もちろん、経済学の中では、このほかの様々な要因を取り入れつつ、複雑なロジックを組み合わせていくことになりますが、従来の市場が、概ねこうした理論で説明できていたということは、まず間違いないだろうと思います。

ところで、情報化社会が進展していく中で、世界における情報産業の比率が高まり、コンテンツやアプリケーションといったソフトが数多く流通してくるようになると、状況は大きく変わってきます。それは、コンテンツやアプリケーションというようなソフトが、技術的にいくらでもコピーできてしまうという点、見逃すわけにはいけないからです。特に、インターネットの発達により、ソフトの流通に統制が効かなくなると、そのコピー数は無限になるわけで、従来の経済学で考えられていた「数量」の概念が崩れるのです。また違法コピーされたソフトが、インターネットで簡単に入手できるような状況になると、「価格」の概念も、同時に崩壊することになります。

こうした新しいソフトの時代においては、経済学的な観点からも、どのようなロジックで価格が決まるかというモデルを構築することは、極めて重要であると言うことができると思います。ここで私は、従来の需要と供給のバランスから価格を導き出すのではなく、需要者側が一方的に価格を決める「お賽銭モデル」を提唱したいと考えます。

「お賽銭モデル」というのは、細かな説明をする必要もなく、神社等で参拝者が投げ入れるお賽銭のような価格決定モデルということです。神社に参拝した人は、特に投げ入れるお賽銭の金額を決められているわけではありませんし、またその義務を負っているわけでもありません。神社に行き、お賽銭箱の前で何となく財布を開いて、そこに入っている小銭の中から、適当に金額を決めて払っているわけです。支払う金額のみならず、そもそもお金を支払うかどうかまでもが、支払う側の自由意思によって、決められている点が、この「お賽銭モデル」のポイントになります。

これまで財の価格というのは、供給者側で設定されるというのが、市場取引における主流ではなかったかと思います。もちろん、正確を期すならば、けっして供給者が勝手に決めているわけではありません。しかしそれでも、通常、多くのモノが取引されるお店では、諸々の状況を勘案しながらも、最終的には、供給者であるお店が価格を設定するケースがほとんどです。そして需要者である消費者や利用者は、その価格と自らの懐具合とを見比べながら、購買活動を決定するというのが市場の一般的な姿ではないかと思うのです。

しかし、従来の「数量」や「価格」の概念が崩壊してしまっているソフトのような財について、供給者ばかりが価格を設定するというのには、いささか無理が生じているのではないかと考えます。そこで注目するのが需要曲線です。

需要曲線は、需要者の「買いたい」という意欲を表したものであり、価格と需要量の関係を図示したものです。一般的には、高くても買いたいという人は少なく、安くなれば買いたいという人が多くなるため、右下がりの線となります。そういう意味で、この曲線は、「これくらいだったら買ってもよい」と考える人の分布を表しているとも言えるでしょう。

ここで私は、需要曲線の少し下に「支払曲線」というのを描いてみました。これが新しい価格の考え方であり、これこそが「お賽銭モデル」で言うところの需要者が決める「価格」です。本来、「お賽銭モデル」的には、需要曲線が「これくらいだったら買ってもよい」という需要者の購買意欲を示しているのであれば、この財を渡したら、無条件に需要者がそれに見合う需要曲線通りの金額を支払ってくれると解釈したいところです。つまり、いちいち「支払曲線」等というものを描かず、需要曲線こそが価格曲線であり、「需要曲線こそが価格である」と考えたいところではあります。

しかし、実際には需要者は、割安感を求めるものです。従来の経済学的な思考で言えば、需要者が割安感を求めると、供給者は割安感を求めない他の需要者に財を売り渡してしまうので、そういう需要者は購入ができなくなることになります。つまり、需要曲線というのは、あくまでも需要者間での競争があることを前提に、需要者が他の需要者との競争に負けないような価格を表したものとも言えるわけです。従来のモデルからすれば、そうした競争環境があるからこそ、需要者が支払う価格(均衡価格)が需要曲線に乗るのだろうと思います。しかし、「お賽銭モデル」においては、あくまでも需要者の自由意思によって価格が決定するため、必ずしもその価格が従来の経済学で言うところの需要曲線と重なるとは言えず、それよりは若干、具体的には割安感を得られる程度、下回る位置で、別の曲線を描く必要があるのではないかと考えた次第です(図の例は、文字通り「お賽銭」のように小銭ばかりを投げ入れるような、かなりケチった需要者のイメージです)。

財の価格設定について、ここまで需要者の意思を取り入れた経済モデルは、これまでの競争原理主義的な市場で十分に機能しなかったかもしれません。しかし、実際に長年にわたる神社の運営は、こうしたモデルによって成り立ってきたことは事実です。また通信インフラの発展とともに、需要者と供給者との間に、より直接的なコミュニケーションが可能になったことで、そのモデルが広く市場に受け入れられる素地も整ってきたのではないかと思います(「次時代コンテンツの評価」、「報酬は感謝・感動の証」参照)。

またもうひとつ、ここで注目すべきは、供給者の収入額の分布です。供給者の収入は、図で言うところの緑色に塗りつぶした部分になるわけですが、これが財の出回る数量が多ければ多いほど、大きく伸びていくという点です。現在のインターネットでは、ソフトがネット上に出回るというのは、違法コピーが流通するという意味で、とかくネガティブに捉えられてきました。しかし、「お賽銭モデル」においては、そうしたソフト流通の無限の広がりが、供給者への収入増へと反映されていくわけです。せっかくのインターネットですから、ネガティブな捉え方をするのではなく、よりよい方向にその特性を活かすことができたらと願うばかりです(「大量犯罪者時代への分岐」参照)。

もちろん、価格決定のモデルだけを示したところで、それだけで社会を動かすことはできませんし、今のままの仕組みでは、「お賽銭モデル」を機能させることは不可能です。これを具現化するためには、いくつかの仕組みが必要になります(「インターネットのリアル化」、「携帯電話システムの強み」、「新コンピューターシステム」等参照)。しかし、少なくとも、そうした新しい仕組みが生み出すものによって、市場のあり方は大きく変わってくるでしょうし、また経済学という学術的なフィールドにおいても、いくつか大きな変化が生まれてくるのではないかと思うのでした。

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