常識について思うこと

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優等生なアインシュタイン

2009年06月21日 | 科学

アインシュタインの相対性理論については、いろいろな書籍が出ていますが、その中には、それを否定するような論調のものも数多くあるようです。各論は置いておくとして、私はそうした見方を否定することはいたしません。アインシュタインの理論には、やはりどうしても腑に落ちない点があることは確かです。しかし、そうかと言って、アインシュタインの理論が、絶対に間違っていると言うつもりもありません。

むしろ私は、アインシュタインの理論に限界があるのだろうと考えています。それは合っているとか間違っているとかいう議論よりも、この世界をキレイに見たいと願うアインシュタインのこだわりのような観点から、捉えた方がいいように思うのです。彼は科学者として、この世界の仕組みについて「曖昧模糊」なものはなく、何事においても「白黒はっきりさせる」ことを願ったのではないかと思えてなりません。しかし実際の世界は、そんなにキレイに説明できるようなものではなく、極めて曖昧で、いい加減な要素に満ち溢れており、とてもアインシュタインが「そう見たい」と願うようなものではないらしいということです。

量子論において、物質は必ずしも「きまってその場所にある」のではなく、観測してはじめて「その場所にある」と言える状態になるといいます。量子論については、多数の書籍が出ているので、詳述はしませんが、あるミクロの物質が存在するときに、それは観測されない限り、「ここにもあると言えるし、あそこにもあると言える」というのが、ミクロの世界の理だとされています。これは「観測していないから、ここにあるのか、あそこにあるのか分からない」ということではないというところがポイントです。「光は粒であると同時に波である」という言葉は、聞いたことがあるかもしれませんが、ミクロの世界の物質は、粒のように一点で観測できるようなものであると同時に、観測していないときには、揺らめく波のような性質を持っており、それは「ここにもあると言えるし、あそこにもあると言える」ということなのです(「揺らめく現実世界」参照)。このように考えるといろいろと難しい問題が出てきます。

ひとつ簡単な例を挙げましょう。ここにひとつの箱があり、そのなかにひとつのミクロの物質を入れるとします。箱に入れるとき、そのミクロの物質は確認されているので、それはひとつの粒子のかたちをしています。この箱のふたを閉じると、そのミクロの物質は「ここにもあると言えるし、あそこにもあると言える」という波のような状態となり、箱のどこにでも存在をするようなかたちになります。次に、この箱を閉じた状態のまま、真ん中で二つに割ります。二つに割られた箱のふたを開けたとき、そのミクロの物質は、どうなっているのかというのが問題です。

箱に入れられたミクロの物質は、それ以上、割ることができないだけの「ミクロな存在」であるため、二つの箱に割られて存在するということはありません。もちろん、両方の箱に入っている(総量として2倍になる)ということもないので、どちらか一方の箱にしか入らないということになります。このように、どちらか一方の箱で、ミクロの物質が確認されるということについて、「確率」をもって解釈するという考え方があります。つまり、右の箱で確認される確率、左の箱で確認される確率が、それぞれ50%であるということです。

少々、乱暴かもしれませんが、言い方を変えるならば、「未来は分からなくて当たり前。確率論的に考えざるを得ない」というのが、こうした思考実験から導き出されるひとつの結論なわけです。こんな出たとこ勝負のような考え方に対して、アインシュタインは、強く反対の立場をとっていたようです。私は、彼が科学者として、このような立場をとったのは、より決定論的に世界を解き明かしたいと考えていた彼の信条故ではないかと思えてなりません。

ところで、こうした問題については、他にも多くの枝分かれした世界があることを認め、多世界解釈を用いてしまえば、とてもスムーズに説明がつくことになります。そして私自身は、たまたま(無数の他世界があるなかで)この世界が、あまりにもキレイにできてしまっているが故に、そうした多世界解釈を受け入れることが難しい状況にあるだけで、本質的には、そうした論理にこそ、真理があると思っています(「妄想と現実の狭間」参照)。つまり、上記の例で言えば、世界は、ミクロの物質が右の箱で確認される世界、左の箱で確認される世界の二つに分かれるようにできているということです。

しかし、アインシュタインには、そうした多世界解釈を行うだけの「型破り」な思考はなかったのでしょう。その点においては、彼の限界(あるいは、その時代の限界)があったと言うことができるのではないかと思います。これを換言するならば、彼は現代における「優等生」的存在ではないかということです。これは良いも悪いもなく、ある意味では、科学の世界において、その時代で守るべきものを守る存在であったということなのでしょう。

ただ、ここでひとつ重大なことを付け加えなければならず、それは、彼が最初から「優等生」的存在ではなかったであろうということです。当時の科学の世界で、彼は奇抜とも言える論理を繰り広げ、それはとても現代のような「優等生」のイメージとは、だいぶかけ離れた振舞いであったと思われます。それが時代の変遷とともに、現代のような彼の評価につながっていったであろうことは、けっして忘れてはなりません。

そういう意味で、アインシュタインのような人物が、「優等生」的存在になるような現代において、多少奇抜に思われるとしても、それを乗り越えるような新しい論理が、どんどんと出てくるのは、とても自然のことではないかと思います。

歴史上の偉人たちは、いつの時代においても変わらぬ偉人ながら、いつまでも彼らの偉業にすがりつかなければならないほど、現代を生きている私たちの存在意義は薄くないと思うのです(「歴史上の誰よりも偉い人」参照)。

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2 コメント

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多世界解釈には賛同したかも? (ポピベン)
2010-05-02 10:54:07
>しかし、アインシュタインには、そうした多世界解釈を行うだけの「型破り」な思考はなかったのでしょう。

アインシュタインが生きていた時代には、未だ多世界解釈は提唱されていませんでした。アインシュタインが懐疑的であったのはボーアが提唱したコペンハーゲン解釈であり、これはある意味、「解釈を禁欲する解釈」です。この解釈では、観測がなされる以前の物理的対象については、何も言うことができません。(コペンハーゲン解釈では波動関数は実在ではなく、系の情報を表す数学的道具に過ぎない。一方、多世界解釈では、波動関数そのものが実在を表すと考えるので、観測がなされようとなされまいと、物理的対象は波動関数が表現しているそのままの形で実在していることになります)

アインシュタインは、科学の目的は、自然現象を単に予測するというより、説明する、理解することだと考えていたし、非決定論である量子力学は彼にとっては不完全なものに思われたのだと思います。だから、道具主義で非決定論のコペンハーゲン解釈に不満を持っていたのだと思います。

多世界解釈は決定論であり、アインシュタインが提出したEPRパラドックスについても一応矛盾の無い説明を与えることができる様です。

アインシュタインがエベレットの多世界解釈を知ることができたら、ひょっとしたら彼は賛同したかも知れません。でもやっぱり観測者と一緒に無限に分裂する宇宙というのは(非決定論と実質的に同じだという意味で)受け入れなかった可能性も高いかも知れませんが。。
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これからの解釈 (竹内一斉)
2010-05-04 18:15:09
ポピベンさん、コメントありがとうございます。

そうですね。大切なことは、科学は日々進歩を続けていて、現代においては、多世界解釈なるものがあり、そうした新しいものに対して、どう向き合っていくかということなのだろうと思います。
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