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出雲への国譲り

2012年04月15日 | 日本

国譲り神話と言ったら、まずは「出雲の国譲り」でしょう。国を作った大国主大神が、天照大神に国を譲る神話のことです。これについては、私なりに思うことがあり、本ブログでも別の記事でまとめているところです(「「国譲り」の二面性」、「日本建国史の再考」参照)。この視点からすると、出雲は国譲りをした側ということになります。

しかし最近、少々別の視点を意識するようになりました。それは、神武東征の際、九州からやってきた神武天皇に王権を譲った饒速日命のことです。もし仮に、饒速日命の行動を神武に対する「国譲り」と称するのならば、これはもしかすると、出雲勢力に対する「国譲り」に当たるかもしれないと思えてならないからです。

この話を進める前に、まずは出雲と国譲り神話について、簡単に考察してみたいと思います。

記紀の記述には、当時の権力者に都合よく書かれた側面があり、国譲り神話は、大化の改新以降、政権をもぎ取った天智天皇-持統天皇(さらには中臣鎌足-藤原不比等)親子の正当化に使われているような気がしています(「東国の神々へのご挨拶」参照)。

ただし、出雲の国譲り神話には、持統朝の思惑だけでなく、実際に出雲勢力が政権を追われた歴史を映し出しているとも考えています。それは、初期の大和朝廷において、まだまだ緩やかな連合体でしかなかった政権が内輪もめを起こし、その過程で出雲を追い出したのではないかということです。このあたりについては、別の記事で述べている(「日本建国史の再考」参照)ので、あまり多くは繰り返しませんが、ポイントを整理すると以下の通りとなります。

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(1)建国:出雲朝(大国主大神)による建国
初期の大和政権。ただし、実体は出雲朝と言えるほど、出雲派が政権運営をしていたというものではなく、有力な首長が集まってできた連合政権だったのではないかと考えます。

(2)討伐:出雲朝の九州(邪馬台国)討伐
中国大陸からの文物の流通ルートを抑えることは、大和政権にとって死活問題だったはずです。当時、北九州にあって、中国との関係を深めていく邪馬台国(私は邪馬台国北九州説をとります)は、大和政権にとって大いなる脅威だったことでしょう。私は、これを討伐したのが、主として出雲の人々だったのではないかと推察しています。神功皇后の三韓征伐などは、出雲勢力の北九州(邪馬台国)遠征と関係しているのではないかと考えます。

(3)反乱:大和における出雲朝に対する反乱
邪馬台国征伐は、大和政権にとって、物流ルート確保のための戦いでありながらも、当時、大和政権内で出雲に並ぶ力を持つ瀬戸内勢力からは、新たなる脅威にみえたことでしょう。何故なら、出雲が北九州を抑えてしまったら、中国大陸から大和への物流が、完全に出雲勢力に牛耳られるからです。そこで、これを恐れた瀬戸内勢力が、九州に遠征している出雲勢力に対して反乱を起こしたのではないかと考えます。結果として、出雲勢力は、九州に取り残された可能性があります。

(4)鎮圧:九州からの大和鎮圧(いわゆる「神武東征」)
出雲勢力を追い出した大和政権は、なかなか国をまとめることができず、九州に追いやった出雲勢力を迎え入れるという決断をしたと思われます。神話的に表現するならば、当時、政権の中枢にいた饒速日命が、神武天皇を迎え入れたのでしょう。いわゆる「神武東征」というのは征服戦争ではなく、平和的な出雲王家の復権だったのではないかと思うのです。饒速日命が「天神の御子」ながらも、 神武も同じく「天神の御子」と認めたのはそのためでしょう。

(5)再建:出雲系大和朝の樹立(いわゆる「神武朝」の始まり)
ここから、神武天皇を初代とした歴史が始まります。ただし、これ以降も王権の権力争いは繰り返され、その中で歴史書の焼失・編纂などが行われてました。そのため、古代日本の天皇家の系譜は、実際の歴史と神話の世界が相俟って、時間軸そのものが前後するなどを含めて、複雑怪奇なものに仕上がってしまったと考えられます。

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このように考えてみると、神話の中で国を譲ったとされる出雲は、きちんと国を譲られた側としても存在することになります。歴史の真実を証明するには、タブーを越えた調査も必要であり、すべてを白日の下にさらすというわけにはいかないかもしれません。しかし、こうした視点、あるいは仮説は、大変重要な意味を持っているように思います。

日本は、言わずと知れた「和」の国です。大和も、大いなる「和」の国たらんと欲したことでしょう。その中にあって、争うことなく「国譲り」をするという精神は、それを見事に表しているのではないかと思えてなりません(「全国民のための建国記念日」参照)。出雲はただ国を譲っただけではなく、国を譲られる側でもあったとするならば、そうした平和的譲位を通じた「和」の精神が、循環しつつ、日本の根底に流れていると考えることができると思います。

先日、長髄彦の墳墓とされる鍋塚古墳に行ってきました。長髄彦は、神武東征の際、饒速日命の指示に従わず、あくまでも神武を拒み続けて戦い、結果として、主君である饒速日命に殺された人物です。饒速日命は、神武に国譲りをするために、部下を殺すという代償を払ったわけであり、その国譲りには、長髄彦の死という犠牲を伴ったわけです。

鍋塚古墳周辺の案内図

長髄彦の墓とされる古墳

鍋塚古墳の上

かつての先人たちは、「和」の国を実現しようとしながらも、いくつもの犠牲を払わざるを得なかった現実と向き合ってきたのでしょう。しかし、次の新しい時代、国造りを進めていく上での環境、諸条件は大きく変わってきています。かつての建国の歴史を紐解き、それらに敬意を払いながら、同時に、大いにこれを参考にしつつ、次時代の新しい仕組みを作っていければと思うのでした。

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