常識について思うこと

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「創造主」の正体

2007年11月17日 | 異次元

「創造主=神様」と考えている人が多いでしょう。たしかに、それはそれで正しいことではあります。もし世界を創造してくれた存在がいるとするならば、この世界に生きる者として、その存在に対して感謝することは当然のことだろうと思います。しかし、「創造主=神様」という図式には罠があります。実は「創造主=神様」とだけ信じるのは危険なことであり、一方で「創造主=サタン(大悪魔)」という側面があることを、見逃してはならないと考えます。

こんなことを書くと、ギョッとする人も少なくないかもしれません。ましてや、特定の宗教を信仰しているような方々にしてみたら、神に対するとんでもない冒涜と理解されると思います。宗教や科学には、正しい要素が多分に含まれています。だからこそ、宗教も科学も今日まで存続しえたし、多くの優秀な信奉者を輩出してきたのです。しかし、それらには限界があることも事実です(「宗教が説く真理」、「万能でない科学」参照)。創造主とは何かを考えるとき、科学的な見地からも、考察していく必要があります。なぜなら、宗教と科学の限界は、互いに補い合うことで克服していくことができるからです。

この物質世界は、大変不思議な仕組みでできています。私たちの世界は、3次元空間、時間軸まで含めて4次元世界として認知されているわけですが、科学の最先端の分野では、この世界は10次元や11次元といった非常に多次元によって成り立っているということまで論じられています。実際、この物質世界を構成しているものは、全体の物質の数パーセントでしかなく、残りの90%以上は、正体不明で分からない暗黒物質等(ダークマター)となっているということが、当たり前のように言われている(宇宙研究開発機構(JAXA)のウェブサイト等にも掲載されている)ほど、この物質世界は謎を秘めたままなのです。

そこで、これらの科学的な謎を説くために、ひとつの仮説を置きます。
(仮説の重要性については、「「仮説と検証」のすすめ」、「限りなく想像し、創造せよ」参照)

「世界は3次元や4次元を遥かに超える多次元(たとえば10次元など)によって成り立っている」

こう考えたとき、私たちが認知しているこの物質世界は、どのように捉えられなければいけないのでしょうか。

少し次元を下げて考えると、分かりやすいかもしれません。3次元空間に住む私たちは、複数の2次元空間を定義し、生み出すことができます。単純な話、あなたがある画用紙を取り出して、それを目の前に広げた時点で、あなたはひとつの2次元空間を定義したと言えるでしょう。そして、そのうえに絵を描いていくことで、あなたは2次元世界を創っていくことができるのです。このように、多次元に住む存在が、少次元を創り出すということは、何も不可能な話ではないのです。さらに重要なことは、あなたはそのようにして、画用紙をいくらでも取り出して、何枚でも絵を描けるということです。描かれた絵は、あくまでも2次元世界であり、そのなかしか認知できない存在にとっては、世界は1枚の絵(ひとつの2次元世界)のなかで完結してしまっているのです。しかし、3次元の世界から眺めると、絵(2次元世界)は何枚もあるのです。

これらのポイントを整理すると以下のようになります。

-多次元の存在は、少次元世界を創造できる
-多次元の存在が創造できる少次元は、ひとつとは限らない(複数に及ぶ)
-少次元内の存在は、自分たちの少次元世界を唯一の世界と認知する

これらのポイントを考慮したとき、今回の「世界は3次元や4次元を遥かに超える多次元によって成り立っている」という仮説は、以下のように再整理することができるでしょう。

-多次元の存在が、この物質世界を創造した
-こうした物質世界は、ひとつとは限らない(他にも同じような物質世界が存在する)
-この物質世界に住まう私たちは、この物質世界を唯一の世界と認知する

「何?我々の世界が何者かによって創造されたって言うのか!他にも物質世界があるだと?馬鹿げている!」

こんな言葉も聞こえてきそうですが、そう切り捨てるのであれば、暗黒物質や多次元に関する科学的な議論について、明確な答えを用意する必要があります。「生命まで生み出せるのか?」という疑問もあるでしょう。しかし、そもそも生命とは何なのでしょうか。本仮説にあるような多次元を明確に否定できず、一方で数々の科学的な謎について、確かな答えを持ち合わせていない私たちが「多次元の存在といえども生命を生み出すことは不可能」と断じることはできないはずです。

少々、前置きが長くなりましたが、ここで本来のテーマである創造主とは何者かに話を戻したいと思います。創造主を、この世界を創り出した多次元の存在とするならば、その創り出してくれたという行為を指して「創造主は神様」だということはできます。しかしその神様は、この世界を創り出しただけあって、この世界のあり方に最もこだわりをもった存在でもあります。そしてまた、世界を創り出すことができるのであるから、当然、壊すこともできるでしょう。

この世界が美しければ、創造主はこの世界を愛することができますが、この世界が醜く歪んでいくようなことがあれば、自ら造ったこの世界を憎み、滅ぼそうとすることもできると考えるべきです。このように、この世界を憎み、滅ぼそうとする側面こそが、創造主のサタン(大悪魔)としての顔です。

ただし、ここで重要なのは「創造主は神様か?サタンか?」という結論ではありません。創造主は、どちらにもなり得るのです。創造主の姿を決めるのは、あくまでもこの世界が美しいか、醜いかということです。そして、この世界が美しいか、醜いかは、私たち人間が決められることであるということが、最も重要であり、また私たち人間が、この世界を美しいと思うか、醜いと思うかも併せて同じように大事なことなのだと思います。

戦争、環境破壊、飢餓、疫病・・・。こうした問題に絶望せず、人間ひとりひとりが、希望をもって明るい世界を創ろうとすることこそが、世界を美しくしていく行為であり、「創造主=神様」の図式を成立させていくことにつながっていくでしょう。創造主の姿を決める鍵は、他でもない私たち人類に握られていることを、私たち自身は自覚していかなければなりません。その意味で、私たち人類は、創造主すらも越えた存在とも言えるのです(「「自分教」の薦め」参照)。

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