常識について思うこと

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揺らめく現実世界

2009年05月01日 | 科学

物事を限りなくマクロに捉えていくと、宇宙の果て、あるいは宇宙の外側の世界がどうなっているのかということについて、考えていかなければならなくなります。これは、大変厄介な問題ですが、現在、科学で解明されている事柄から、それらしい何かしらの仮説は置くことができるようになってきたように思います。私自身は、この宇宙の外側にある、また別の無数の宇宙の存在を積極的に認めること(そして、それらはある種のトンネルで繋がっていると仮定する)で、現代の科学において、謎とされている事象の多くが説明できるようになるのではないかと考えます(「宇宙が膨張を続けるカラクリ」参照)。

一方で、物事を限りなくミクロに捉えていくと、これもまた非常に不思議な問題が続出してきます。こうした問題を扱う量子論のなかでは、一般的に科学で語られる言葉とは思えない話が出てきます。

量子論において、電子のようなミクロの物質は、私たちが観察しているときには、それがどこにあるかを特定できる一方、私たちが見ていない限り、「どこか一箇所にいる」のではなく、「ここにいるとも言えるが、あそこにいるとも言える」状態になっているといいます。こうしたことは、量子論において、ミクロの物質が「粒であると同時に波である」と表現することにも繋がりますが、要は、こうした物質が、常に揺らいでいるような、非常に曖昧模糊な存在であるということなのです。

量子論に関する書籍は、数多く出版されているはずなので、ご関心のある方は、そうした書籍なり、雑誌なりをご一読いただければと思います。そのなかで、私が指摘しておきたいポイントは、そうした非常に曖昧模糊としたミクロの世界が、現実世界の一部であるということです。

「シュレディンガーの猫」という思考実験があります。この概要は、箱のなかに①放射性物質、②放射線検出器、③毒ガス発生装置、④生きた猫を入れて、一時間後の猫の生死を確認するというものです。仕掛けとしては、①で放射線が発生すれば、②の放射線検出器が反応し、それに応じて③の毒ガス発生装置にスイッチが入り、④の猫が死んでしまうというものです。量子論の問題としては、「放射性物質が一時間後に原子核崩壊を起こしているかどうかは、放射性物質を誰も見ていないときには決まっていない」というところがポイントです。このことから、私たちが見ていないとき、箱のなかの猫は「生きているとも言えるが、死んでいるとも言える」状態にあるということになるのです。

こうなってくると、科学というよりは、ほとんど禅問答のような言葉に聞こえるのではないかと思います。「猫が生きているか、死んでいるかは、それを見る貴方次第」と言われんばかりの話です。

この実験において大切なことは、こうしたミクロの不思議なルールが、通常私たちが視認している現実世界と完全に切り離すことはできないであろうということです。その一例が、この「シュレディンガーの猫」なのであり、私たちの日常は、こうした不思議なルールの影響を大きく受けながら、成り立っているであろうということを考慮しなければならないと思います。つまりそれは、私たちが見ることによって、曖昧模糊な物質の状態が定まるというミクロの世界における法則は、実はマクロの事象においても、ある側面で十分に通じ得るのではないかということです(「「特殊な存在」という自任」参照)。

ところで、こうしたミクロの世界における不思議な現象について、非常に有効な解釈論として、パラレルワールドのような「多世界を認める」というものがあります。この多世界解釈によれば、世界は可能性の分だけ枝分かれしていくということになるようです。つまり、前述の「シュレディンガーの猫」の例で言えば、「猫が生きている世界」と「猫が死んでいる世界」の二つが並行して存在するということです。

この多世界解釈においては、一度枝分かれした世界同士が再び出会い重なり合うこともあるというのですが、このあたりも非常に興味深いと思います。私自身、このことは、冒頭に記したマクロの世界において考えるべき、「別の無数の宇宙」の話にも通じるものがあると考えています。つまり、別々に存在しているように見える無数の宇宙(あるいは世界)は、実は時間の経過とともに分かれたり、合わさったりしており、けっして完全に独立した閉鎖環境にはないということです。これをマクロの世界で考えるならば、それらを結ぶトンネルとしてのブラックホール(あるいはホワイトホール)の存在が、鍵を握ることになるでしょう。私自身、このあたりの考え方において、アインシュタインの理論には、限界があるのではないかと思っています。

また少々余談ですが、人間が思い描くイメージのうち、妄想というのは、別宇宙の形成に何かしらの影響を及ぼしているように思います。つまり妄想は、ひとつの可能性をイメージしているものであり、量子論の多世界解釈に基づいて、その可能性で枝分かれしたパラレルワールドが存在するとするならば、その妄想によって別宇宙を形成しているとも言えるわけです。このように考えていくと、アニメの世界もそんなにバカにはできないのではないかと思うのです(「妄想と現実の狭間」参照)。そして、もっと踏み込んで言うならば、人間の精神は、この宇宙の形成に深く関わっている可能性があると思います(「創造主の正体」参照)。

ただ、ここでは妄想について、もう少し解釈を加えます。例えば「決死の覚悟」というのも、なかなか面白いものです。このブログでも、繰り返して述べている通り、本当に大切なものを拾いたければ、それを捨てる勇気を持つことも大切です(「欲するものへの心持ち」参照)。つまり命を拾いたければ、「決死の覚悟」が必要なわけですが、それは言い換えると、自分が死ぬという「死の妄想」でもあります。「死の妄想」は、自分が死ぬというひとつの可能性を強力にイメージすることであり、これは自分が死ぬ「別宇宙の形成」にも繋がると考えることができます。しかし、実際にその別宇宙が形成されたとしても、その別宇宙においては、自分が死んでしまうため、結果として、そうした別宇宙に存在する自分はいなくなり、それとは引き換えに、「死の妄想」をしたこの宇宙における自分が強く生きることに繋がると言えるわけです。このときの「別宇宙に存在する自分がいなくなる」ということは、別の言い方をすれば、雑念や迷いを滅することだと言えるでしょう。

逆に、別宇宙にいる自分の存在を許しているということは、迷ったり、後悔したりする状態にあるということであり、他の可能性を引きずっていることだろうと考えられます。このうち、過去における他の可能性を引きずるということが、後悔するということでしょう。だからこそ、強く生きたければ、過去を受け止め、後悔の念を消し去ることが肝要なのです。なぜならば、そうすることで別宇宙に存在する自分を打ち消し、この宇宙における自分の存在を高めることができると思われるからです(「時間との付き合い方」参照)。

いずれにせよ、私たちが住む現実世界などというのは、とてもいい加減にできている可能性があるということです。語弊があるかもしれませんが、だからこそ「この宇宙は自分のもの(自分は別宇宙に存在しない)」と言い切った者勝ちなのだとも思うのです(「「自分教」の薦め」参照)。

そして最も大切なことは、そう言い切れるために、迷いや雑念を拭い去り、自分自身を磨き続けることだろうと考えます。

《おまけ》
何かとアニメの話に結び付けたくなるのですが、「決死の覚悟」の話で言えば、「黒神」のなかに登場する「マスタールート」には、誰でもなれるということです。つまり別宇宙に存在する自分、言い換えれば雑念や迷いに毒された「サブ」を殺して、その「テラ」を吸収することで、自分が「マスタールート」となり、この宇宙で力強く生きていくことが可能になるということです。

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