常識について思うこと

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甘やかさない力量の重要性

2010年10月04日 | 社会

尖閣諸島の問題を巡って、日中政府間での駆け引きが続いています。事の成り行きや、それに対する意見等については、既にいろいろなところで記事化されているため、敢えてここで取り上げる必要はないように思います。

読売新聞の世論調査によると、本問題に対する中国側の一連の対応について89%が行き過ぎと考えており、中国からの謝罪と賠償の要求については94%が納得できないと答え、中国を信頼しているかという問いに対しては84%もの人々が信頼していないとの結果が出ています。

世論調査というのは、一部、マスコミの思惑が関与するものでもあるでしょうから、これをもって、何かを断ずるつもりはありません。しかし、一方で事ここに至れりという印象です。

今日の中国政府の危さについては、既に本ブログでも述べている通りです(「信頼に値する国家」)。そして、今回の件に関して言えば、こうした問題の経緯があるなかで、日本に謝罪と賠償を求めてくるということからすると、彼らが訴える歴史問題等、聞く耳を持つに値しないことの根拠として、十分なのではないかという気さえしてきます。要は、いい加減な事をでっち上げておいて、隙あらば、それに乗じて奪うことに長けている方々なのではないかということです。これはこれとして、彼らの性分をきちんと受け入れればよいのかもしれません。

同時に私自身、性善説の立場をとるので、こうした中国政府の問題点について、言論上の攻撃対象にしたり、それをもって「悪」と決めつける考えはありません(もちろん、中国国籍の個人を責める等もってのほかです)。さらに、こうした問題ある中国政府に対して、筋を通すことができないような日本政府であるならば、その図式を成り立たせてしまっている一人の日本国民として、大きな責任を感じます。

筋を通せないというのは、一種の甘えです。それは、通すべき筋が見えないという力不足の可能性を含めて、筋を通すという当たり前のことができないという意味で、甘え以外の何物でもないと言えるからです。

私は国民の一人として、日本政府をそのように甘やかせてしまっている責任を感じていますし、その結果、中国政府を甘やかせてしまっているようにも思うのです。換言すれば、甘えを許してしまっているが故に、日本政府がつけ上がり、その隙に乗じて中国政府がつけ上がっているということでしょう。これ自体、悪い事だとは言いません。ただやはり、こうしたことはお行儀が悪いと思いますし、それはけっして良い事でもないと考えます。これから先、こうした甘えはきちんと正していく必要があるでしょう。

日本という国の良さは、相手の不条理すらも甘んじて受け入れるというところにあると思います。それは、「Noと言えない日本人」という言葉に、象徴されるところでもあります。私は、そうした日本的なところが、大好きです(「「No」と言えないことへの誇り」)。しかし、それが故に、社会に甘えの構造を生み出してしまっているようではいけません。相手を受け入れると同時に、自分を律し、相手を斬るくらいの緊張感もあって然るべきでしょう。

これは、幼い子供に接するのと全く同じ事です。甘えた子供はしつけなければいけません。それが大人の人間であるならば、それも全く同様に扱うべきでしょう。人間社会は、これからの数十年間で、全く違う次元へと移行するように思っています。子供じみた「ゴッコ遊び」からは卒業しなくてはいけません。今日の人間社会に、それを許してしまうような甘えがあるとするならば、それはきちんと排除していく必要があります。

国家間の関係で言えば、甘えている中国政府に対しては、それを正すような日本政府が生まれてこなければなりません。つまり、そうした甘えを正していく力量こそが、これからの時代の政治家にとって、とても重要なのではないかと思うのです。そうした意味で、私たち国民は、そういうリーダーを輩出できるような意識を、きちんと持たなければならないでしょう。併せて、中国国民の側にも同じような意識が生まれてきたら、日中関係を始めとした世界の国家間の関係は、次の時代に向けて、大きく変わっていくのではないかと思います。

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