常識について思うこと

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ケンシロウから学ぶ呪文

2009年12月01日 | 歌詞&台詞

世の中、不条理な事というのは多々あります。こちらが真面目に、一所懸命やっているのに対して失礼な態度を取られたり、無視をされたりということがあると、無性に腹が立ったりします。

こういう時は、腹を立てるばかりでなく自省も大切です。もしかしたら、自分自身に問題があるかもしれません。例えば、ある組織の中に身を置いているとして、その失礼な相手が、自分の上司だったりする場合、そもそもそんな組織に身を置いてしまっている自分自身に問題があると考える必要もあるでしょう。そんな組織に身を置きつつ、それなりにうまい汁を吸ってきた自分自身を顧みることなく、その組織やその一部である上司の悪口ばかり言っても、何も始まりません。もしかすると、腹を立てるより前に、まず自分がすべきことは、その組織から抜けることかもしれません。

ただし、この考え方を突き詰めていくと、そもそも「そんな社会に身を置いてしまっている自分」、「そんな国家に身を置いてしまっている自分」というところまでいってしまうため、どこかで開き直ることも必要だと思います。

そのように自省することを怠らず、一方で、どこかの時点で開き直ることができたとして、どう考えても相手がおかしいと思ったら、あとは結果で勝負するまでです。そして、その勝負に絶対的な自信を持っていられるのなら、この言葉をこっそり唱えるのです。

-お前はもう死んでいる-

これは「北斗の拳」で、主人公・ケンシロウが、必殺の経絡秘孔を突いて、既に死が決まっている相手に対して放つ台詞です。秘孔を突いた直後では、まだ相手は生きており、ピンピンとしているわけですが、秘孔を突いた時点で、既に相手の死は決まっているのです。このちょっとした時間差を用いて、自分だけが知っている「相手の死」を予告するような言葉を放つことができたら、それはとても痛快だろうと思います。

けれども、ケンシロウのように物理的な経絡秘孔を突いて、相手を殺してしまうのは、絶対にいけません(うん?あ、できないか・・・)。しかし私は、精神的な意味でこれを行うことは可能であり、また大いに許されることなのではないかと思います。

何かを一所懸命やっている自分に対して、たとえ失礼な態度を取られたり、無視をされたりしたとしても、もし本当に自分が正しければ、後になって、相手が自らの過ちを認めなければならず、自分に対しては詫びを入れるしかなくなります。結果として、それは(精神的な意味で)過去の相手が死んだとも言えます。したがって、もし自分が、そうなるであろうことに確信を持てるのであれば、大いにその時間差を利用して、ケンシロウの言葉を呪文のように唱えてみてもいいのではないかと思うのです。

ただし、その失礼だった相手が、自らの過ちを認めて、それなりのけじめをつけた時には、すんなりと受け入れてあげることも大切でしょう。自分の過ちを認め、けじめをつけたというのは、相手がその「精神的な死」を乗り越えて、新しく生まれ変わったとも言えるのであり、その生まれ変わった相手に対しては、いつまでもウジウジと突っかかってはならないと考えます。「罪を憎んで、人を憎まず」という言葉がありますが、過去の過ちを悔いて、それなりのけじめをつけた人に対しては、あくまでも寛容であるべきです。

そして、このように新しく生まれ変わった相手をきちんと許すことは、極めて重要であると考えます。私が、物理的な意味で、人間を殺すことはけっして許されないことながらも、精神的な意味で、相手に死を突きつけることが許されると考える理由は、ここにあります。つまり、「物理的な死」は二度と甦ることがありませんが、「精神的な死」は、本人が自らの過ちを受け入れることで、新しい人間に生まれ変わることができる、即ち甦ることができるからです。そんな新しく甦った人間を、いつまでも受け入れることができないと言うのならば、その「精神的な死」は、二度と甦らない「物理的な死」と何ら変わらなくなってしまいます。

「アイツが許せん」、「あの人は失礼だ」、「呼びかけを無視しやがって」・・・。

いろいろとあるかもしれませんが、まず自分に呪文を唱える資格があるかを熟考の上、問題がなさそうなら、ケンシロウを真似てみるのも良いかもしれません。とにかく、後々になって、自分が「ひでぶっ!」とならないように気をつけましょう(笑)。

《おまけ》
ここでは、「呪文」という言葉を使いました。「呪文」とは、言うまでもなく呪いの言葉ですが、私はこれにネガティブな意味しかないとは考えません。古来より、神様と呪術は深い関係にあったのであり、神様が畏怖、畏敬の念を持って、人々に崇められたのには、神様自身が呪術に長けていたからだと思います。私としては、自分自身を信じることができる人間が、そうした力を積極的に使っていくことも、あって良いのではないかと考える次第です。

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