Sightsong

自縄自縛日記

Making of Björk Digital @日本科学未来館

2016-06-29 07:15:41 | ポップス

ビョークが、「Björk Digital ―音楽のVR・18日間の実験」という展示に合わせて来日している。2日間のDJイヴェントは即完売してチケットを買えなかったこともあって、その前日の映像の公開収録とトークショーに足を運んだ(2016/6/28)。

獣のお面をかぶって出てきたビョークは、カメラの前の決められた場所に立った。ビョークの周囲は発行源でまるく取り囲まれており、ストロボ光とともにビートが打ち鳴らされた。彼女は、胸を前に突き出し、両肘を後ろにギクシャクと動かすダンスを踊りながら、「Quicksand」(『Vulnicura』所収)を歌った。それが、リアルタイムでのライヴ・ストリーミングと、収録との2回。

生の動きも見ものだったのではあるが、パフォーマンスが終わったあとの休憩時間にiphoneで観た映像は、まったく別物だった。彼女は光と一体化し、激しく変貌し、最後は砂となって崩れていった。youtubeのアプリを使えば、指で360度動かしながら観ることができるようだった(わたしは使わなかった)。

休憩後のトークショーには、着替えて、ピンク色の靴、ピンク色のキラキラしたショール、そして針金による妙なものを頭と顔に装着して登場した。

彼女は話した。

『Biophilia』では自然とタッチスクリーン技術の要請で曲ができたが、『Vulnicura』はまず時系列のギリシャ悲劇的な曲があった。
―ニューヨーク近代美術館(MOMA)でのビョーク展のために「Black Lake」の映像を収録したとき、狭い部屋と2スクリーンという制約があった。その閉塞感にあわせて、谷間での映像とした。
MOMA PS1で公開した「Stonemilker」は、専用のメガネを装着し、ドーム内で360度の視界で観る映像。好きなビーチに連れていってもらって、上機嫌で収録した。
―いま、やはり『Vulnicura』に収録した「Family」を別のコンセプトで映像化している。
―そして今回の「Quicksand」。ストロボ光のビートと、曲の焦燥感とがマッチするのではないかと選んだ。
―口の中に入ってゆく「Mouth Mantra」もある。
―エモーションとテクノロジーとを融合させるのは自然なこと。大昔のヴァイオリンだってそうだったはずで、それは感情表現の大事なツールになり、『Vulnicura Strings』として結実した。かつては直接人と会わない環境ではパニックを引き起こしていたが、電話や携帯ができて、コミュニケーションの幅が広がった。
―自分は常に同じではない。一方で前に進む怖さもある。

そして社会とのかかわりについて問われ、さらに話した。誰だ、音楽に政治を持ち込むなとナンセンスなことを言ったのは?

―政治家も誰も、罪の意識が麻痺しているのではないか。地球も社会も大変なときに。
ーでも、できると思うし、方向を変えられると思う。音楽だって一緒でしょう。(ここは、ビョークの独特な英語が胸に刺さった。「I still hope we can do it.」「We can still turn around.」「I think it is the same with music.」と明確に語った。)
―創造力とテクノロジーとによって、私たちは方向を変えられる。

それにしてもビョークの言葉は胸に刺さってくる。彼女のちょっと不思議な英語の発音も魅力のひとつだと思うのだが、たとえば、巻き舌で「perhaps」と、丁寧に「equilibrium」と、それから言葉が自律しているかのように「emotional」「humanity」と発せられると、もう耳が彼女の言葉のひとつひとつに貼りついてしまう。それに加えて、発言のあとに、「I hope it makes sense.」「I always say too much.」と謙虚に付け加えるビョークをみていると、先の過激なビョークとはまるで別人、ひたすら可愛いのだった。

フルコンサートをやってくれないかな。

●参照
ビョーク『Vulnicura Strings』(2015年)
ビョーク『Vulnicura』(2015年)
MOMAのビョーク展(2015年)
MOMA PS1の「ゼロ・トレランス」、ワエル・シャウキー、またしてもビョーク(2015年)
ビョーク『Volta』、『Biophilia』(2007、2011年)
ビョーク『Vespertine』、『Medulla』(2001、2004年)
ビョーク『Post』、『Homogenic』(1995、1997年)
ビョーク『Gling-Glo』、『Debut』(1991、1993年)