鮎川俊介の「幕末・明治の日本を歩く」

渡辺崋山や中江兆民を中心に、幕末・明治の日本を旅行記や古写真、研究書などをもとにして歩き、その取材旅行の報告を行います。

渡辺崋山『参海雑志』の旅-田原から伊良湖岬まで-その1

2015-01-15 05:35:45 | Weblog

 「道の駅田原めっくんはうす」に到着したのが10:37。さっそく観光マップ(案内板)で渥美半島の地図を確認しました。

 地図を見てみると、田原市内から赤羽根方面へ行くバス路線は赤い線で示されており、「田原警察署前」を過ぎた「農高前」(渥美農高前)から南下し、「黒河」を経由して「高松」に至り、そこで太平洋側に出て、そこから海岸線に沿って西に進み、赤羽根や和地、小塩津、堀切などを通過して北上し、保美に至っています。

 『参海雑志』の崋山は、高松→赤羽根→和地(ここで泊まる)→小塩津→堀切を経て伊良湖に至っており、この豊橋鉄道のバス路線の堀切あたりまでが、ほぼ崋山の歩いたコースと重なるように推測されました。

 そこで「道の駅田原めっくんはうす」から、田原市内の旧道をさがすべく、国道259号の「東赤石」交差点(これが「道の駅めっくんはうす」の最寄りの交差点)から、田原市役所方面へ北西に延びる道路へと入って行きました。

 まもなく橋を渡りましたが、その橋の名前が「ふれあい橋」で川の名前が「汐川」。この橋の欄干の袖の部分に、崋山の「一掃百態」の図柄が描かれたタイルが埋め込まれていました。

 「ああ、今、崋山の田原にいるんだ」という実感が湧いてきました。

 北北西の方向に見える山は蔵王山。頂上には白い風車(風力発電のためのもの)が見える。あの風車の近くの展望台に登り、田原市街を見下ろしたことを思い出しました。

 あの山の頂上には崋山も登っているはずです。

 「ふれあい橋」を越え、「福祉センター西」交差点で右折して三河田原駅方面へと進んで行ったところ、ふたたび橋にぶつかりました。

 その橋にも、その袖に崋山の「一掃百態」の絵柄が描かれたタイル状のものがはめ込まれていました。

 橋の名前は「さくら橋」。川の名前は「清谷川」。

 橋は「平成20年2月」に架けられているから、まだ新しい橋。その橋にも崋山の絵がしっかりとはめ込まれています。

 これは崋山ファンにとってはうれしいこと。

 土地の人々は、「ふれあい橋」や「さくら橋」を歩いて渡る時にこの絵を見て、何を想っているのだろう、といったことを考えました。

 「さくら橋」を渡って田原町南公共駐車場の前を通過し、三河田原駅前に出たのが10:54。

 初めて田原を訪れた時は、この三河田原駅前に下り立ち、田原城跡へと歩いて行きました。

 駅前は閑散としており、駅前に小さな本屋があって、そこで崋山関係の郷土本を買おうかと思って入ったところが、崋山関係の本も郷土本もなく、「駅前の本屋にもなき郷土本」と口ずさんだ記憶がよみがえってきました。

 まわりには倉庫のようものがあって雑然としていた記憶もあります。

 しかしそれから30余年ぶりに訪れた田原駅前は大きく変貌しており、駅舎も駅前のロータリーも、その周辺も新しいものになっていました。

 昔のやや寂れた雰囲気は一掃されています。

 バスの時刻や電車の時刻や運賃表などを確かめましたが、もちろんここからバスや電車には乗りません。

 駅前ロータリーへと出て、案内マップを確認しました。

 「大手公園」「本町」「新町東」「郵便局前」「新清谷」などの交差点の位置をおさえ、このルートがほぼ崋山が歩いたコースだと判断しました。

 「新清谷」は、先ほど「さくら橋」で渡った清谷川の上流ということになります。

 ということで駅前(駅の西側)の大通りに出て清谷川へと戻っていくと、そこに架かる「一本橋」があって、その橋の袖にも「一掃百態」の絵柄が描かれたタイルがはめ込まれていました。

 この「一本橋」は「平成2年3月竣工」の橋。

 この時期からすでに、新しく造られた主要な橋には崋山の「一掃百態」の絵柄がタイルとしてはめ込まれているようであることを知りました。

 田原市の一貫した姿勢というようなものを感じ取りました。

 この「一本橋」の手前で右折し、川べりの道を上流の方へと歩いていきました。

 道の右手の広い区画は、大きな工場が壊されて大きな空間が生まれようとしていました。

 田原駅前の再開発がこのあたり(工場跡地)にも及ぼうとしているように思われました。

 

 続く

 

〇参考文献

・『渡辺崋山集 第2巻』(日本図書センター)



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