鮎川俊介の「幕末・明治の日本を歩く」

渡辺崋山や中江兆民を中心に、幕末・明治の日本を旅行記や古写真、研究書などをもとにして歩き、その取材旅行の報告を行います。

渡辺崋山『参海雑志』の旅-田原から伊良湖岬まで-その4

2015-01-20 05:51:29 | Weblog
『参海雑志』の旅の時、崋山は数えで41歳。前年の天保3年(1832年)の5月(陰暦)には、年寄役(家老)末席に抜擢され(禄100石、役料20石)、海防事務掛を兼任することになりました。今まで私が追ってきた崋山の旅は、文政8年(1825年)の「両総常武への旅」(『四州真景』の旅)、天保2年(1831年)の『毛武游記』と『訪瓺記(ほうちょうき)』の旅、同じ天保2年(1831年)の『游相日記』の旅ですが、芳賀徹氏が『渡辺崋山 優しい旅びと』で指摘しているように、「これまでの旅上の体験は一つ一つ、危機に対決する藩政の指導者崋山のなかに生かされ、彼の熱誠と判断の成熟を培っていた」ものであると私も推察しています。『参海雑志』の旅をした天保4年(1833年)の頃、崋山は小関三英・高野長英・幡崎鼎(はたざきかなえ)ら蘭学者と共に西洋研究グループ「尚歯会」を結成してその中心人物(「大施主」)となり、また翌年には農政学者大蔵永常を田原藩に招請して殖産興業を推進します。したがって彼の生涯最後のスケッチ旅行である『参海雑志』の旅においては、彼の「これまでの旅上の体験」に基づく強烈な問題意識や興味関心がいたるところで放射されているに違いない。彼は何に目を留め、観察し、スケッチし、出会った土地の人々にどういったことを聞き、何を書き留めたのか。今までの旅は藩領外でしたが、今度は藩領内ないしその近辺の旅。今や年寄役末席(家老)であり海防事務掛でもある崋山は、温かくも冷徹な目をその旅先において注ぐはずです。 . . . 本文を読む