鮎川俊介の「幕末・明治の日本を歩く」

渡辺崋山や中江兆民を中心に、幕末・明治の日本を旅行記や古写真、研究書などをもとにして歩き、その取材旅行の報告を行います。

渡辺崋山『参海雑志』の旅-田原から伊良湖岬まで-その5

2015-01-24 06:43:34 | Weblog

  県立渥美農業高校前の「大久保」交差点で左折し、「農高前」バス停を過ぎると、進行方向に道路標示がありました。

 「←豊橋 259 ↑47 赤羽根 →伊良湖 259」と標示されています。

 豊橋から伊良湖岬へと延びる国道が259号線で、これは先ほどの「道の駅 田原めっくんはうす」の横を走っていた大きな通りであり、旧道沿いを走るバス通り(私が歩いて来た旧道沿い)のバイパスのようなものであるでしょう。

 赤羽根方面へ行くバスは、県道47号を直進していくことになります。

 国道259号と県道が交差する交差点の名前は「大久保南」。

 振り返ると、滝頭山が大きく見えました。

 交差点を少し進んだ道脇の電柱には、「ここの地盤の高さ 海抜24.7m 大久保町黒河原」と記された標示があり、このあたりが田原市大久保町黒河原であるということがわかります。 

 この電柱に巻きつけられた標示はかなり新しいものであり、津波対策として田原市が最近設置したものであるように思われました。

 「黒河」バス停を過ぎたのが12:12。

 右手に見える丘陵を眺めながら、「汐川」に架かる橋を渡り、「大草団地前」バス停を過ぎ、「高松北」交差点に至ったのが12:33。

 ここまで通り沿い左右には畑が広がっており、またビニールハウスもかなりの数を見ることができました。

 かつてはもちろんビニールハウスはなく、一面、畑かあるいは田んぼが広がっていたものと思われます。

 「高松」という地名は、崋山の『参海雑志』に出てきます。

 田原城下から「高松」までのルートを崋山は記していませんが、おそらく「清谷橋」を渡って旧道(かつては本通り)を進み、大久保村で左折して赤羽根方面へと進んだはずです。

 というのも「けふ午の刻ばかりにかどです」と記した後、すぐに「高松の冨士見茶屋にてぞ飯す。田原よりこの村までハ二里なり」と記しているからです。

 この記述から「高松村」内の街道筋には、「冨士見茶屋」という茶屋があったことがわかります。

 私が「清谷橋」を渡ったのが11:25。

 「高松村」の中心はさらに先であるはずだから、田原城内から「高松村」まで「二里」というのはほぼ妥当なところです。

 この「高松北」交差点で道は直進していく道と左折していく道とに分かれており、私はうっかりそのまま直進してしまいました。

 進行方向に見える丘陵をめざし、やがてその丘陵を右手に見て、「高松一色」の交差点に出たのが12:58。

 この交差点は国道42号と合流する地点で、ここで右折して国道を進めば赤羽根や伊良湖岬に至ることになります。

 国道は、先ほど見えた丘陵の南麓を進んでいくのですが、道路脇にはこの地方独特の造りの古い家が建ち並んでいました。

 まもなく行く手に道路標示があり、「↑ 42 伊良湖岬21km」とありました。

 歩けばここから伊良湖岬まで5時間ほどはかかることになります。

 まずは赤羽根まで目指すことにして、赤羽根から先は翌日に歩くことを、この標示を見て決めました。

 さて、あとで、「高松北」交差点のところで道を間違えたことに気付き、「高松北」交差点から「高松」交差点に出て、左折して国道42号に入って「高松一色」へと歩くのがおそらく正しいルート(崋山が歩いたルート)だと判断することになるのですが、そのルートを歩くのも、翌日とすることにしました。

 

 続く

 

〇参考文献

・『渡辺崋山集 第2巻』(日本図書センター)



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