鮎川俊介の「幕末・明治の日本を歩く」

渡辺崋山や中江兆民を中心に、幕末・明治の日本を旅行記や古写真、研究書などをもとにして歩き、その取材旅行の報告を行います。

渡辺崋山『参海雑志』の旅-田原から伊良湖岬まで-その2

2015-01-17 06:41:37 | Weblog

  清谷川に沿って上流へと歩いて行くと、「清谷橋」という木造欄干の幅の狭い橋が架かっており、旧道の雰囲気を濃厚に漂わせていました。

 そこで、その橋に出たところで右折して旧道と思われる道を進んで行くと、左手にお寺があり山門に「蔵王山」と記された額が掛かっています。

 さらに進んで行くと、「↑田原まつり会館 →寺下通り →崋山墓所(城宝寺) →三河田原駅」と記された案内標示が道筋左手に現れました。

 ここは「寺下通り」であり、渡辺崋山の墓所がある「城宝寺」の前を通る道であったのです。

 崋山の墓所のある城宝寺は今までに二度訪れたことがあり、この通りは歩いているのですが、この通りの先に「清谷川」があり、そこに「清谷橋」があるということは知りませんでした。

 通り(寺下通り)のさらに先には足を踏み入れていなかったのです。

 「蔵王山」と山門に額が掛かるお寺は、曹洞宗蔵王山龍門寺。

 「田原まつり会館」へと左手へ折れる道の角には、「田原城下町入口跡の由来」と記された案内板がありました。

 それによると、この角(現在地)は、当時城下町の陸路正面の入口にあたり、時には木戸も建てられたようである、とのこと。

 巴江、加治、清谷の入江を前に城下を守る要塞ともなり、路はわざと見透しなく、曲がり曲がって城の大手門に至っていたとのこと。

 ということは、汐川や清谷川の流域は、かつては海が入り込んだ入江であったことになり、この「寺下通り」の現在地は、田原城大手門へと続く道の「正面の入口」であったということになります。

 時代はいつ頃かと言えば、慶長年間(1596~1614)で、戸田尊次が田原の城下町を築いた頃のこと。

 田原城の大手門を出て南下していくと、曹洞宗蔵王山龍門寺の境内を右手に見たところで「寺下通り」に出て、そこで右折して進んで行けば、清谷川に架かる清谷橋のところに差し掛かったことになります。

 おそらく崋山ら三人は、大手門を出てからその道筋を経て、赤羽根方面をめざしたのでしょう。

 ということで、この「寺下通り」を戻って清谷橋を渡り、さらに先へと進むことにしたのですが、せっかく近くでもあるので、崋山の墓所である城宝寺に立ち寄ってみることにしました。

 

 続く

 

〇参考文献

・『渡辺崋山集 第2巻』(日本図書センター)



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