鮎川俊介の「幕末・明治の日本を歩く」

渡辺崋山や中江兆民を中心に、幕末・明治の日本を旅行記や古写真、研究書などをもとにして歩き、その取材旅行の報告を行います。

渡辺崋山『参海雑志』の旅-田原から伊良湖岬まで-その3

2015-01-18 05:54:14 | Weblog

 真宗大谷派の龍泉寺の入口には「妙好人園女 鈴木春三先生 之墓所」と刻まれた石標が立っていました。

 龍門寺もこのお寺も、山門へと続く立派な石段と瓦屋根付き白壁の塀が石段の両側にあり、檀家の経済的豊かさを示しています。

 やはり通り左手に現れた慶雲寺(曹洞宗)も、年輪を経た鐘楼が白塗り塀の向こうにせり上がるように建っている大きなお寺でした。

 次に道筋に現れた案内標示が「寺下通り Terashita-Dori」というもの。

 「江戸時代、この付近は寺の集中した地域です。寺の配置というのは、防備面の弱い所、また、城下町の鬼門の方向に設置したり、防備面、精神面の安定を図るといった意図があったとされています。寺の集中した下側を通るということで、寺下通りと呼ばれるようになりました。」

 と記されています。

 先ほどの「田原城下町入口跡の由来」と併せて考えてみれば、このあたりはかつては海(三河湾)へと続く入江に面する丘陵があるところであり、その丘陵の上にお寺が並び、その丘陵の下に通りがあったものと思われます。

 「龍門寺」と「龍泉寺」の間には、城下町の「陸路正面の入口」から続く曲がりくねった坂道があって、新町や本町、大手門へと続いていたことになります。

 防備面の配慮が強く働いた諸寺の配置であったように思われました。

 目指す「城宝寺」は、慶雲寺の隣(東隣)にありました。

 門前に「渡邊崋山先生御墓所」と刻まれた標柱が立っています。

 また門前には、「観光案内 城宝寺起源」と記された案内板もありました。

 それによると、「渡辺崋山先生御墓所」は、崋山が自刃して検視の役人が24日目に江戸から来るまで、崋山の遺骸が瓶(かめ)に入れられたまま納められていたところであるとのこと。

 また、城宝寺田原城主戸田因幡守をはじめ、三宅備前守代々田原城主が尊信の厚かったお寺であるとも記されていました。

 宗派は浄土宗。

 石段を上って山門を潜ると、右手に「城宝寺古墳」(愛知県指定史跡・6世紀半ば頃に造られた渥美半島で最大の独立円墳)がありました。

 「穴蔵の由来」と記された案内板にも、「昔は渥美の地形は今とは異なっており現在の低地は海であった」とあり、現在お寺が並ぶ段丘の下、清谷川や汐川の流域の低地は海(入江)であったことを示しています。

 三河湾から船で入り込むことができたのです。

 山門を入って左手にあるのが崋山の墓所であり、ここを訪れるのは今回で3回目。

 崋山の墓所の背後には、他の家の墓所の墓石が林立しています。

 墓所の手前右側には、昭和30年(1955年)に建てられた霊牌堂(崋山霊牌堂)再建の由来を刻んだ石碑や、「見よや春 大地も亨す 地虫さへ」と刻まれた崋山の、背の高い角柱の句碑も立っていました。

 「亨(こう)す」とは、「とおる」とか「さわりなくいくこと」といった意味であり、春の息吹が大地の隅々にまでゆきわたり、地中の虫までが春を感じ取ってうごめいている、といった句の内容であり、崋山の春を迎えた喜びがそこにはあふれています。

 その句碑の左手に、「崋山墓所」のそれぞれの墓が誰のものであるのかを示した立札が立っています。

 中央が崋山。その左が妻のたか、その左が小華(崋山の二男)。右が母のおゑい、その右が小崋の妻のすま子。

 それぞれのお墓に新しい仏花が供えられていました。

 中央の崋山の墓には「崋山先生渡邊君之墓」と刻まれています。

 そのお墓の前で深く拝礼をしました。

 お昼近くだというのに、墓域も本堂のまわりも人影はなく、あたりは静けさに包まれていました。

 お墓を参った後、山門を潜って「寺下通り」に戻り、そこからいよいよ清谷橋の方へと旧道を歩き始めました(11:21)。

 

 続く

 

〇参考文献

・『渡辺崋山集 第2巻』(日本図書センター)

・『江戸後期の新たな試み-洋風画家谷文晁・渡辺崋山が描く風景表現』(田原市博物館)

 



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