鮎川俊介の「幕末・明治の日本を歩く」

渡辺崋山や中江兆民を中心に、幕末・明治の日本を旅行記や古写真、研究書などをもとにして歩き、その取材旅行の報告を行います。

渡辺崋山『参海雑志』の旅-田原から伊良湖岬まで-その6

2015-01-27 05:51:04 | Weblog

 「高松一色」交差点で国道42号に入り、赤羽根を目指しました。

 まもなく左手のビニールハウスの屋根と、人家や森の向こうに、わずかに太平洋の水平線が見えてきました。田原を出発してから初めて見る海面になります。

 「高松一色」のバス停で、休憩を兼ねてやや遅めの昼食(おにぎり)を摂り、ふたたび出発。

 すぐに、左折して0.5km入って行くと、「太平洋ロングビーチ」であることを示す道路標示が現れました。

 通り左手にある「大松屋食堂」を過ぎてまもなく、右手に現れた石鳥居と石段が「一色神社」。

 石段の上から太平洋を見渡すことができるだろうと考え、石段を上がって行くと、案の定、太平洋の大海原を眺めることができました。

 境内には「由緒」が刻まれた小さな石碑があり、それによると、この神社はかつて村内にあった若宮八幡社と大磯弁天社の両祭神を合祀して、昭和13年(1938年)にこの地に遷宮して「一色神社」としたもの。ということは、もちろん江戸時代にはなかったもの。

 の繁栄と安全を祈願し、あわせて豊漁海難事故の守神として信奉されてきたともあり、「大磯弁天社」というの名前からしても、この地はかつては漁業も行われていたところであるらしいことを知りました。

 石段を下ってふたたび国道へと戻り、「大石」交差点を過ぎて10分ほどで、左手の電柱に「赤羽根町諏訪」 と記された地名表示を見掛けました。

 そしてその斜め前に現れた神社が「諏訪神社」。この神社は古くからこの地にあるものと思われました。「諏訪」という地名は、おそらくこの「諏訪神社」にちなむものであるでしょう。

 ここから旧道と思われる細い道を歩いて、国道とふたたび合流したところにあった交差点が「中村」交差点。

 この「中村」交差点の周辺が赤羽根町の中心であるようで、商店や人家、公共施設が密集していました。

 左手にあった豊橋信用金庫赤羽根支店の窓ガラスには、「この付近は海抜約25m」の表示がしてあり、この「中村」のあたりは海面から25mの高台にあることがわかります。太平洋の海岸からはおよそ500mは離れているから、旧道は段丘上を走り、赤羽根の中心集落はその旧道沿いに軒を連ねていたに違いない。

 赤羽根には漁港があるはずですが、それはここより先にあるようです。

 ということで道を進んで行くと、左手に赤羽根小学校や赤羽根中学校を過ぎたところで、「道の駅 あかばね ロコステーション 0.7km」という道路標示が見えてきました。

 ゆるやかな坂道を下りきると、左手に入江とそこに密集する白い小型漁船があり、左折する道の奥に「道の駅」らしき建物が見えました。

 その白い小型漁船が密集する入江が「赤羽根漁港」であり、奥の海岸に面したところにある施設が、やはり「道の駅 あかばね ロコステーション」でした。

 漁港になっている入江は、まるで広い池のように見えますが、漁港であるから太平洋とつながっているはずです。

 「道の駅」に行くのはあとにして、国道を左手の漁港を見ながらそのまま進んでいくと、水門があり、その水門の案内看板には「二級河川 池尻川 緊急防災対策河川事業」と記してありました。

 この「二級河川」の「池尻川」は、それは国道の下を潜って、この水門のところで漁港へと流れ込んでいるのです。

 国道の右手を見ると、確かに川が上流へと続いていました。

 「赤羽根漁港」交差点を過ぎ、しばらくして「赤羽根漁港」バス停がありました(14:05)。

 バスの時刻表を見てみると、「田原駅前」行きが15:14にあります。

 そのバスで田原に戻ることにして、赤羽根漁港を通って、「道の駅 あかばね ロコステーション」に向かうことにしました。

 

 続く

 

〇参考文献

・『渡辺崋山集 第2巻』(日本図書センター)



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