鮎川俊介の「幕末・明治の日本を歩く」

渡辺崋山や中江兆民を中心に、幕末・明治の日本を旅行記や古写真、研究書などをもとにして歩き、その取材旅行の報告を行います。

2012.9月取材旅行「桐生~水道山公園~大間々」 その4

2012-10-04 05:57:00 | Weblog
 「円満寺」は、鐘楼を兼ねた門が異彩を放っていました。境内からは東方向に桐生市街とその向こうの山の連なりを眺めることができました。しかし妙音寺と同様、それほど眺望が広がるわけではありません。

 そこから下って、車道脇のやや高い所に延びる歩道を進んで行くと、左手に学校の校舎とグラウンドが見えましたが、それは先ほど「糸屋通り」を北へと進んでいった時にぶつかった「桐生市立北小学校」でした。

 そして右手に現れた神社が「桐生西宮神社」と「美和神社」でした。両者の境内は隣り合っています。

 この「桐生西宮神社」というのは、「由緒」が記された案内板によると、明治34年(1901年)に摂津西宮神社の御分霊を勧請して成立した神社であり、したがって、江戸時代にはなかったもの。

 一方、「美和神社」というのは、「延喜式内上野十二社の一社」であり「大国主命」を祭神とする古い歴史を持つ神社。

 石鳥居の右側の石柱にも、「延喜式内 郷社美和神社」と刻まれています。また「上野國十二社 三輪大明神」と刻まれた標柱もありました。

 石灯籠には「元文三」「享和元年」「文化二年」といった年号が刻まれており、西暦で言えばそれぞれ1738年、1801年、1805年であることを考えると、これらの石灯籠は二百年以上もの歳月を経たものということになる。

 崋山は、天保2年(1831年)10月15日の午後、ここを訪れています。

 「午飯行厨を携て桐生町より西なる山に登る。町をはなるれば三輪の神社あり。これは延喜式内の御神にて、陽成天皇勅額勲十等といふ。…この処ハはや荒戸村といふなり、小名を村松と称とぞ。」

 この「三輪の神社」というのが「美和神社」のこと。

 現在の「美和神社」の社殿がいつ建てられたものかはわかりませんが、石畳の参道沿いにある石灯籠は、崋山がここを訪れた時にはすでに存在していたものであることが、その石灯籠に刻まれている年号から知ることができました。

 全体のたたずまいそのものは、おそらく崋山が訪れた頃のそれとそれほど大きく異なってはいないもののように思われました。


 続く


○参考文献
・『渡辺崋山集 第2巻』(日本図書センター)


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