鮎川俊介の「幕末・明治の日本を歩く」

渡辺崋山や中江兆民を中心に、幕末・明治の日本を旅行記や古写真、研究書などをもとにして歩き、その取材旅行の報告を行います。

2012.3月取材旅行 「宮原~上尾~桶川~鴻巣」 その最終回

2012-03-28 19:38:21 | Weblog
崋山が生田万と別れて上尾宿を出ようとしたところ、従僕の弥助が足を痛めて一歩も歩くことができない状態になり、やむなく弥助に持たせていた行李(こうり)と笈(おい)を連れの高木梧庵と交互に担いで行くことになりました。しかしその荷物が肩のあたりに食い込んで痛くなり、崋山自身も一歩も踏み出せないような状態になる。そのよう状況であるのに雨は降ってくるし夜が更けて行く手も見分けがたい状態となる。かろうじて桶川宿に着いたのは夜戌(いぬ)の時ほど(午後8時頃)のことでした。桶川宿で人足を借りて行李を持たせることにして出立。人の往来はなく、雨はいよいよ激しくなる。人家で蓑と笠を借り歩いていくものの疲労は極度に達する。ようやく鴻巣宿の「穀屋次郎兵衛かた」に到着したのは夜の10時過ぎのことであったと思われる。板橋宿の茶店で落ち合う約束であった岩本家の使用人吉兵衛がすでに到着していて、崋山が旅籠に到着したことを知って驚いて出迎えます。崋山は直ちに酒を命じますが、酒の肴が良くなかったので卵を5つ購入して食べました。一日50kmほどの行程は、崋山であってもやはり相当にこたえたことがわかります。上尾宿で、「疲れてしまったからここで泊まる」と言って崋山の誘いを断った生田万は、賢明であったと言うべきでしょう。可哀そうなのは、重い行李と笈を背負って、足の痛いのを我慢しつつ、必死に崋山や梧庵のあとを上尾宿まで付いてきた従僕の弥助でした。 . . . 本文を読む

2012.3月取材旅行 「宮原~上尾~桶川~鴻巣」 その7

2012-03-28 06:03:45 | Weblog
嘉陵は、桶川宿から中山道を戻り、上尾宿を過ぎ大宮宿に至ったところで、足も疲れてしまったので戻り馬に乗りました。今まで私は嘉陵は帰途もずっと歩いたものと思いこんでいましたが、大宮宿から馬に乗っていたのです。ではどこまで馬に乗ったのか。はっきりとは記してありませんが、おそらく蕨宿までであるようで、そこの「中村や作兵衛」という茶屋に立ち寄って夕飯を摂り、戸田の渡しを日が暮れるまでに越えようと走るように歩き、元蕨村の縄手の人家があるところで振り返ってみると、秩父連山の上に浅間山が見え、その東に妙義山も榛名山もくっきりと見えました。傍らにいた人に聞いたところ、「いかにもあれは浅間山、これは妙義山」と答えます。今朝、ここを通過した時はまだ暗かったから、ここから浅間山が見えることも知らないで通り過ぎたけれども、桶川で見た浅間山の風景よりもこちらの方が勝っていることを考えると、桶川まで行ったのは馬鹿らしいようにも思われたけれども、思い返してみれば、あそこまで行って浅間山を確かめたからこそ、帰りにはここから見えるかも知れないと思って道を急いだのであり、またここでも晴れていたからこそ遠くの山が見えたのであって、曇っていたり霞がかかっていたならば見えるはずはなかったのであると、心に満足を覚えながら嘉陵は戸田の堤に上がって、黄昏(たそがれ)を過ぎる頃に荒川を渡し舟で越えたのです。大宮宿から蕨宿まではおよそ10.5km。その間を馬に乗ったから、その距離を全行程から差し引いても1日で約80kmを歩いたことになります。板橋宿に着いたのが午後6時頃。還暦を迎えた嘉陵にとって長距離歩行の疲れはさすがに足にきて歩みはのろくなり、帰宅したのはそれから3時間後の午後8時過ぎのことでした。 . . . 本文を読む