鮎川俊介の「幕末・明治の日本を歩く」

渡辺崋山や中江兆民を中心に、幕末・明治の日本を旅行記や古写真、研究書などをもとにして歩き、その取材旅行の報告を行います。

2012.3月取材旅行 「宮原~上尾~桶川~鴻巣」 その7

2012-03-28 06:03:45 | Weblog
 「東間浅間神社再建之碑」の碑文を読んでみると、この神社は東間の鎮守として約880年の歴史を有しているとのこと。ご祭神は「木花開耶姫命」であり、古来子育ての神として崇敬され、初山例大祭の時には近隣はもとより遠方からも子どもの健やかな成長を祈る多くの参拝客が訪れ賑わうとのこと。

 ということは、これは富士浅間信仰にもとづく神社であり、約900年近くの歴史を持っていることから、この小高い丘は富士講の人々が造った人工の「富士塚」ではないということになります。

 石段を上ってみると、社殿はまだ新しく(再建されたばかり)、「淺間神社」という額が掛かり、「御祭神木花開耶姫命」と墨書された看板が柱に打ち付けられていました。

 石段の上から見下ろしてみると、高さは10mほどはあるように思われました。

 神社は小高い丘の頂きにあるわけですが、平地に突き出ている独立した丘のようであり、もしかしたらこの小高い丘はかつての古墳(円墳)ではなかったかとも思われました。その頂きに、古来、富士浅間信仰に基づく浅間社があったのでしょう。

 村尾嘉陵は、上尾宿を過ぎたところで左手にあった「富士浅間」を祀る「小高き所」に上っていますが、それはこのようなものではなかったかと思いました。

 しかし、現在は、そのあたりには「浅間台」とい地名はあるものの、「富士浅間」を祀るそれらしき「小高い丘」は見当たらないようです。

 嘉陵がその「小高い丘」に上って北方向を眺めたように、私もその「東間浅間神社」のある頂きから北方を眺めてみましたが、木々が鬱蒼と茂って視界を遮られました。

 石段を下り、石鳥居を潜って中山道へと戻って行ったところ、「村社・淺間社」と刻まれた石柱があり、この神社が東間村の鎮守さまであったことを示していました。

 この「富士塚」のような形の「小高い丘」にある浅間社が、富士講とはまったく関係がなかったのか、それとも何らかの関係があったのかは、確かめることはできませんでした。

 そこから中山道に出ると、右手に、「北本銘菓 とまと大福 やまもと」と白く染め抜かれた暖簾が掛かる店がありました。「とまと大福」というのは珍しい。この近辺の畑では「トマト」が栽培されているのでしょうか。

 北本市域から鴻巣市域へ入ったのが14:25。

 歩道の傍らに立っていた「鴻巣宿加宿上谷新田」と刻まれた標柱から、このあたりが「上谷新田」という地名であったことがわかります。

 まもなく街灯に「雛 人形町 鴻巣ひな人形協会」と白く染め抜かれたえんじ色の垂れ幕が掛かっている光景が見られるようになりました。

 バス停の名前も「人形町」。

 電信柱には「人形4-1」という地名標示が貼り付けられています。

 右手に石鳥居があり、石畳の参道が真っ直ぐに延びていました。その参道左手に「人形町自治会館」があり、参道両側にある狛犬を見てさらに参道を進むと、左手に朱塗りの鳥居があって「淺間神社」という額が掛かっていました。その向こうにあるのはかなり整備されているものの塚のようであり、その左手に「角行霊神」と刻まれた石碑が置かれています。

 「角行」というのは富士講の祖とされる「長谷川角行」のことであるから、この塚は富士講関係のものであり、すなわち「富士塚」らしいということになります。

 しかし案内板はなく、詳しいことはわかりませんでした。

 中山道に戻ると、さすがに「人形のまち 鴻巣」で、「節句人形」や「ひな人形」と記された看板や掲示物(ポスターなど)が目立ってきました。

 また瓦葺木造2階建ての商家も沿道に見掛けるようになりました。

 「元市商店会」の桜色の垂れ幕を見てしばらく進むと、「鴻巣本陣跡」と刻まれた標柱が現れました(14:52)。そこには鉄筋コンクリートの3階建てのビルが建っていました。

 「鴻巣駅入口」交差点を過ぎ、「雷電神社前」バス停を通過してまもなく、「こうのす歴史を描く」と記された案内マップを見付けました。

 この案内マップによると、「現在地」であるところは「鴻神社」であり、その「鴻神社」は明治6年(1873年)に、鴻巣宿の雷電社・熊野社・氷川社を合祀して「鴻三社」となり、その後明治35年(1902年)頃に東照宮など多くの社を合祀して「鴻神社」となったのだという。

 その鴻神社境内に入ってみると、そこには「こうのとり伝説」が記された看板がありました。また別の案内板によると、ここはもともとは「竹ノ森雷電社」の社地であったとのこと。巨木と竹林によって囲まれた古社であり、鴻巣宿の鎮守はこの「竹ノ森雷電社」であったのです。

 鴻巣の歩道の石畳(タイル張り)には、くちばしに白い袋をひっかけたコウノトリが描かれたものがはめ込まれており、「こうのとり」が、この鴻巣の地名と深くかかわっていることをうかがい知ることができました。


 続く


○参考文献
・『江戸近郊道しるべ』村尾嘉陵(東洋文庫/平凡社)


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