鮎川俊介の「幕末・明治の日本を歩く」

渡辺崋山や中江兆民を中心に、幕末・明治の日本を旅行記や古写真、研究書などをもとにして歩き、その取材旅行の報告を行います。

2012.3月取材旅行 「宮原~上尾~桶川~鴻巣」 その5

2012-03-24 06:52:56 | Weblog
崋山が上尾宿を通過したのは、この『毛武游記』の時が初めてではない。そのことを知ったのは『板橋区史通史編上巻』に目を通していた時でした。それによると文政2年(1819年)、もと田原藩藩医であった加藤曳尾庵(えいびあん)が板橋の平尾宿に移り住みますが、その年の5月27日、崋山は「石戸宿」というところへ向かう途中、曳尾庵宅に立ち寄り、翌28日にはその「石戸宿」より戻って曳尾庵宅に2泊したというのです(P676)。つまり文政2年5月27日、崋山は板橋宿を通って「石戸宿」というところに向かったのですが、『通史編』には、崋山がなぜ「石戸宿」に向かったのかは記されていませんでした。気になってネット等で調べてみると、その時の崋山の目的は、「石戸」の「蒲ザクラ」を描くことであったことを知りました。現在の北本市には「石戸宿」というところがあり、そこには「日本五大桜」の一つである「石戸蒲ザクラ」があります。その推定樹齢はおよそ800年。その根もとには源範頼の墓と言われる石塔があるという。この源範頼は、源頼朝の異母弟であり、「蒲冠者(かばのかじゃ)と呼ばれたことから、その石塔があるところに咲く桜は「蒲ザクラ」と言われてきたとのこと。この崋山が描いた「石戸蒲ザクラ」が挿絵として掲載されているのが、滝沢馬琴の『玄同放言』という随筆集(3巻6冊)であり、その後編は文政3年(1820年)に発行されています。文政2年の5月、崋山はその「石戸蒲ザクラ」を描くために、わざわざ江戸から中山道を歩いて上尾宿を通過し、おそらく桶川宿から左に折れて石戸宿へと向かいました。崋山にとって中山道桶川宿まではすでに歩いたことのある道であったのです。 . . . 本文を読む