鮎川俊介の「幕末・明治の日本を歩く」

渡辺崋山や中江兆民を中心に、幕末・明治の日本を旅行記や古写真、研究書などをもとにして歩き、その取材旅行の報告を行います。

2012.3月取材旅行 「宮原~上尾~桶川~鴻巣」 その6

2012-03-25 05:53:02 | Weblog
嘉陵は、茶菓子屋の主人の話を頼みに中山道をさらに進み、桶川宿の入口右手の畑の中に教えられた通りに不動堂があったので、畑の細道に入ってその不動堂の不動尊を拝しました。しかしここの畑からは日光山や赤城山などが木々の間から見えたものの、浅間山の方角は木々に遮られて見えない。そこで不動堂の縁に腰掛けていた男に尋ねてみると、「浅間山は桶川宿の西裏の畑の中から見えますよ」ということだったので、桶川宿に入って二丁(200m余)ばかりの石橋のところから左折して五、六丁(600m前後)ほど進んだ畑の中から北の空を見渡してみたところ、まゆ墨のようにあわあわと見える山がある。それがどうも浅間山らしいと思ったものの確信が持てないので、遠くで畑を耕している男を見付けて、畔(くろ)を伝って近寄り尋ねてみると、その男は、「あれが確かに浅間山です。今日はとりわけよく晴れたのですが、あまりにのどかで霞んでいるため噴煙ははっきりと見えません。今朝ははっきりと噴煙が見えていたのですが」などと言って、妙義山や榛名山なども教えてくれました。やっと念願を果たした嘉陵は、未(ひつじ)の刻(午後2時頃)ばかりであったため、そこから急いで帰途に就きました。ここに出てくる「不動堂」というのは、南蔵院という明治初年に廃寺となったお寺の不動堂であったらしい。雑木林の中に広がっていた畑は、この地で栽培されていた「紅花」の畑であったのだろうか、それとも「紫根(しこん)」の畑であったのだろうか。不動堂の縁に腰掛けていた男も、桶川宿の西側で畑を耕していた男も、桶川宿近辺の百姓であったと思われる。嘉陵は「紅花」については触れていませんが、「紫根」については触れています。「六貫目を以(もって)一苞とし江戸に送ると云(いへ)り、もの染るのみにあらず、薬物にも入」。「紅花」や「紫根」といった商品作物の栽培から、桶川宿やその近辺も「江戸地廻経済圏」の中に組み込まれていた地域であったことがわかります。 . . . 本文を読む