鮎川俊介の「幕末・明治の日本を歩く」

渡辺崋山や中江兆民を中心に、幕末・明治の日本を旅行記や古写真、研究書などをもとにして歩き、その取材旅行の報告を行います。

2012.3月取材旅行 「宮原~上尾~桶川~鴻巣」 その3

2012-03-21 05:35:07 | Weblog
「宮原」や「吉野原」といった地名からうかがえるように、この上尾宿近辺の中山道界隈は、見渡す限りの原っぱや雑木林が広がっていた地域であったものと思われます。その間に農家や農村が散在し、広大な畑などが開かれていたのでしょう。大宮宿の周辺も、嘉陵の描いた絵図からわかるように同様でした。その平地(台地)からは、空気が澄み切った天気のよい日には、西方向はるかかなたに富士山の秀峰がくっきりと見えたはずだし、また上州の山々や、また遠く浅間山なども北方に見えたはずです。その広大な平地からやや突き出た古墳や富士塚といった築山(つきやま)の上からは、背の高い建物が周辺に密集する現在の状況とは違って、かつては周囲の山々を見晴るかすことができました。中でも人々にとって印象的であったのは富士山の姿でした。特に雪をかぶって白く輝く独立峰の富士山は、それを見るものに神々しさを感じさせました。その富士山への人々の信仰は、富士浅間信仰として古来あったものと思われますが、その長い信仰の蓄積の上に、幕末になって人々の間に急速に広がったのが「富士講」でした。加茂神社周辺の「富士塚」を見ただけでも、この埼玉県にはかなりの数の「富士塚」があるものと推測されました。「富士塚」があるということは、その「富士塚」を築いた「富士講」の人々がその地域にいたということであり、その地域に「富士講」があったということは、その人々が富士山へと向かう「富士道」が各地にあったということです。富士詣でが大山詣でとセットされている場合(実際そういうケースが多いのですが)、その「富士道」は「大山道」でもあったわけです。嘉陵が記す「富士浅間」を祀る「小高い山」とは、「富士塚」であるように思われますが、見晴らしが効かず、日が差し込まないほどに樹木が鬱蒼としていたことを考えると、もしかしたら古来からの富士浅間信仰にもとづいた石祠か神社のある「小高い丘」であったのかも知れず、それはもしかしたら円墳などの古墳を利用したものであったのかも知れない。周囲はだだっ広い平地であったから、その「浅間様」は中山道を行く者からは目立つものであり、その上に登れば周囲が見渡せると嘉陵が考えたのも、無理なからぬことでした。 . . . 本文を読む