まず一つの取り組みとしては、被災地の巨大津波が押し寄せた最上部のところに(それは海抜20m前後の地域によってかなり幅のある標高線になるだろう)、亡くなった人たちや行方不明者の慰霊(鎮魂)のための桜の木を一本一本植樹していくというのはどうだろう。植樹していくのは犠牲者の身内の人であったり、友人や知り合いの人であったりと、被災地の人たちです。その桜の木は、あの漁師の方の話にあったように単なる慰霊のためのものではなく、津波警報が出されたらまずは一目散にそこへと避難していく目印となるものです。明治29年(1896年)の三陸海岸を襲った巨大津波は、ジャバ島に起きた巨大津波に次ぐ世界第2位の大規模なものであったという。公式記録によると10mから24.4mと言われているというけれども、実際には海面から50mのところもあったという。この巨大津波によって、岩手県の気仙郡、上閉伊郡、下閉伊郡、九戸郡、この四郡の人口が約10万3千名であったところが、実にその22%が死亡していると、『三陸海岸大津波』の著者である吉村昭さんは述べています。では、その明治29年の三陸海岸大津波の記憶はしっかりと継承されていたかというと、結果的に見るとそうとは言えず、年月の経過とともに風化してしまったといっていい。それが端的に現れたのが東京電力福島第1原子力発電所の事故でした。冷却水を循環させる装置の電源がすべて喪失するという致命的事態(冷却水喪失事故)は、その電源が巨大津波にのみ込まれたことによるものであり、それは「想定外」でも何でもなく、明治29年の巨大津波の高さを想定に入れていれば、十分に予測可能なものでした。何も貞観地震の巨大津波まで遡らなくとも、わずか115年前に起こっていたことなのです。 . . . 本文を読む