鮎川俊介の「幕末・明治の日本を歩く」

渡辺崋山や中江兆民を中心に、幕末・明治の日本を旅行記や古写真、研究書などをもとにして歩き、その取材旅行の報告を行います。

津波と桜 その2

2012-03-15 05:49:08 | Weblog
 巨大津波の記憶の風化と言えば、3月14日の『毎日新聞』11面の「記者の目」に、大阪社会部記者である熊谷豪さんの「風化繰り返した過去の悲劇」という記事が掲載されています。

 それによると、三陸沿岸部は、明治維新以降に限ってみても、明治(1896年)、昭和(1933年)、チリ地震(1960年)と3度、大津波に襲われてきました。しかし「海辺に住むな」「高台に逃げろ」というそれぞれの津波が残した教訓は、早急に風化し、十分には生かされてこなかった、と熊谷さんは指摘しています。

 昭和8年(1933年)の昭和三陸津波の後、震災を永久に記録しようと、全国から寄せられた義捐金をもとに、宮城県は県内32ヶ所に復興記念館を建てましたが、昨年3月の震災前に残っていたのは5館のみであり、震災後の現在では1館のみであるとのこと。

 その最後の1館である唐桑(からくわ)半島にある「宿(しゅく)集会所」も、震災資料は一切残されていないという。

 明治29年の明治三陸津波の場合も、各地に石碑が建立されたが、その25年後に三陸地方を歩いた民俗学者柳田国男が、旅行記「豆手帖から」に、「恨み綿々などと書いた碑文も漢語で、もはやその前に立つ人もない」と記すように、津波の教訓は25年後にはすでに忘れ去られていました。

 では、津波の記憶を風化させないためには、どうすればよいか。

 私が考えるのは、今回の巨大津波が襲った最高地点の標高線がわかるように、それに沿って一本一本桜の木を植えていくことです。

 それは多数の犠牲者の慰霊のためでもあり、そして重要なことは、いざとなればそれに向かって逃げるための目印のためでもあります。

 「箱モノ」は老朽化するし、維持費もかかります。石碑はやがて草に埋もれるし、場所によっては目立たなくなります。柳田国男が記すように、それが「漢語」の文章では読む人も限られるでしょう。

 しかし、毎年4月になって満開となって咲く桜の花は、しっかりと一本一本手入れをし、老木となったら新しい苗木を植えていけば、あの吉野の桜がそうであるように、ずっと後世までも咲き続けることになるし、また、それは標高20m前後(各地によって標高の幅はあります)の線にそって咲くから、平地からも海上からも目立ちます。

 つまり、津波の記憶が誰でも見えるように「視覚化」され、それは毎年春になると満開になることによって、人々の記憶を蘇らせるものになるのです。

 しかも一本一本が、それを植えた身内の人々や友人、知り合い、あるいは子孫によって支えられることによって、「箱モノ」や「石碑」のように、大きな経費もかからない。

 被災地の津波の標高線に沿った満開の桜は、毎年、全国に報道されることによって、被災地の人ばかりか、全国の人々にも平成23年3月11日の「東日本大震災」の巨大津波の記憶と慰霊の気持ちを想い起こさせることになるでしょう。

 では、その津波の標高線に沿った満開の桜を、被災地を訪れた人々はどこから眺めるか。

 そのように考えた時、私は、三陸海岸に沿った鉄道の全面復旧を強く望みます。そしてその復旧した鉄道に沿って、まったく歩行者専用の「遊歩道」があわせて敷設されることを夢見ます(これが第2の「夢想」)。

 その思いを強くしたのは、先日のNHKの「クローズアップ現代」で、アニメの影響による現代の新しい「聖地巡礼」が、アニメファンの若者たちによって一つのムーブになっており、そのアニメに背景として描かれた風景を訪ねる(探索する)ために、アニメファンの若者たちが地方を訪れ、歩く姿がみられるようになってきたという報道に接したからでした。

 巨大津波に不幸にも見舞われたとは言え、「国破れて山河あり」という言葉に示されるように、山や川や海といった大きな自然は、ほとんどそのままに残っています。

 三陸海岸を初めとする東北地方の海岸線は、美しい自然と豊かな海産物に恵まれています。

 もちろん復興には、若い人たちも含めた地域の人々の雇用の場として、工場や事務所なども必要ですが、都会から多くの人々を招きよせることも大切です。

 その復興が進められていく東北地方の海岸部の各地を結ぶ「線」として、鉄道の役割は大きいと私は考えています。

 たとえば三陸海岸に沿って巨大な防潮堤が造られ、その上に敷設された幅広の舗装道路の上を大型トラックや大型観光バス、乗用車やバイクなどが音をたてて疾走していく光景は、その三陸海岸の景観全体から考えてみても似つかわしくない。

 現在の利根川の巨大堤防がそうであるように、そのような道路や防潮堤は、地域の人々の生活を身近であった自然から遠ざけ、人々のコミュニティーを分断します。

 車が走り、自転車が走る道路は、平地にあればいいのです。

 東北地方の太平洋岸を訪れた人々が利用する交通機関は、海岸部に沿った鉄道こそがふさわしく、そして人々が「歩行者専用道路」として歩く道は、その鉄道に沿って敷設された道こそふさわしい。

 その道は、車椅子利用者も安心して移動することができる道でなければならない。

 地域の人たちも、もちろん「散策道」「ウォーキング道」として安心して安全に歩く道です。

 そして春ともなれば、その「歩行者専用道路」からは、津波の標高線に沿って咲く満開の桜の花を見渡すことができるのです。

 また地域の人々が中心になって徐々に復興していく「まち」の景観を見渡すこともできるのです。

 巨大津波によって多くの被害と犠牲者が生まれたそれぞれの地域が、新しい「聖地」となる可能性は十分にあり、新しい形の、それぞれの点と点を結ぶ「聖地巡礼」が、被災地の復興の上で大きな力となる可能性があるのではないか、と私は「夢想」しています。

 三陸海岸のいまだ復旧の目途が立っていない鉄道の建設、それによる三陸海岸の鉄道の全面開通は、経費的に難しいのだろうか。そしてその線路に沿って人々が歩くためだけの「歩行者(車椅子利用者なども含む)専用道路」を敷設することは難しいのだろうか。

 私は、まったくの素人ながら、巨大な防潮堤を造ったり、幅広の自動車専用道路を造ったり、「復興」と称して全体の景観を考えない巨大高層集合住宅やコンクリートの「箱モノ」を造ることなどと較べたら、ずっと経費はかからないと思います。

 また桜の苗の植樹も(桜の苗は全国から寄附すればお金はあまりかからない)、その維持管理もそれほど経費のかかるものではない、と思います。

 どこに経費をかければ、それが本当に「まち」や地域の復興につながり、巨大災害の「歴史の記憶」を保全させ、後世の人々の永続的な教訓ともなりうるのかを、真剣に考えることが、この大震災の記憶を、また多数の犠牲者の人々を、「忘れない」ということであると考えます。


 続く


○参考文献
・『毎日新聞』2012年3月14日・「記者の目」「風化繰り返した過去の悲劇」(熊谷豪)
・『文藝春秋 9月臨時増刊号』「吉村昭が伝えたかったこと」(文藝春秋)


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