先日のアイリッシュ・タイムス紙から。
長く失われたと思われていたカラヴァッジオの名画「キリストの捕縛」Taking of Christ(1602年頃製作)が蘇ったのは1990年頃のことだった。これは、長い事ダブリンのジェズイット教団の食堂に、煤に汚れてかかっていた。ダブリン国立美術館にクリーニングと鑑定を依頼したら、カラヴァッジオの失われた名画だとわかった。あのときは大ニューズだった。暖炉の前の壁に長い事ぶら下がっていたから誰も真面目に見ない程薄汚れていたらしい。
この絵は数奇な運命を辿った。元の所有者はリー・ウイルスン夫人(1971年没)。夫君はイギリス軍大尉でフランスで戦っていたが、復活祭蜂起~独立戦争の頃はダブリン警察に帰ってきていて、義勇軍兵士や共和主義者の捕虜を残酷に扱っていたという。そのためマイケル・コリンズの命令で暗殺された(1920年。)
夫人はカトリックだが(そのためイギリス人でプロテスタントのリー・ウイルスン氏との結婚に大反対されたらしい)夫君の没後ダブリン大学トリニティ・カレッジに入学して医者になり、小児科医師として評判の名医になった。或る時スコットランドに旅行し、この絵を買った。当時は「キリストへの裏切り」Betrayal of Christというオランダ人画家ホントォスト(Honthorst 発音が分からない)というカラヴァッジオ風の絵を上手く書く画家の作品とされていた。いくら払ったかはわからないが、本物ではないと思われていたわけだから、たいして高くはなかったのだろう。夫人は、夫君の死に際して大変親切にしてくれたジェズイットの神父さんにこの絵を贈った。以来食堂に掲げられていた。カラヴァッジオの失われた名画とわかって大騒ぎになったのは夫人の死後20年以上たってからだった。
ある日、私がダブリン国立美術館でこの絵を見ていたら、館員がスペインから来た中学生たちに絵の解説を始めた。捕えられているキリストの顔が二つある。一つは神の命に従う宗教者で神の子の顔。後ろで手を挙げて絶叫しているのは生身の人間キリストの絶望と嘆きをあらわにしたもの。このどちらもキリストそのものだ、と。カラヴァッジオは人間キリストも一緒に描く事で近代的なキリスト像を示していると。スペインの子供達は神妙にうなずいていた。こうやって彼等は自分の時代のキリスト教を理解してゆくのだな、と感じた。館員はまた「捕えている兵隊がちょっとおかしくないか」と聞いた。すかさず一人の子が「鎧がキリストの時代の物じゃない」と言った。鋭い。館員は喜んで「そうだ、この鎧はカラヴァッジオの時代のスペインの鎧だ。ローマは当時スペインに支配されていた。だから、カラヴァッジオは捕えられたキリストをスペインに支配されているローマとして描いているのだ」と。良いね。こうやって彼等は歴史を自分の物として学んでゆくのだ。