某年金生活者のぼやき

まだまだお迎えが来そうに無い

機銃掃射

2012-11-12 16:36:51 | ぼやき
 昨夜仲間たちと痛飲した。それは毎度のことだが、昨夜は、そこでの私の話を書けと散々言われた。戦時中の子供にとっては別に特別なことではないのだが、書かないと「飲み過ぎて、書けと言われたことを忘れたな」と誤解されるので、此処に書いておこう。
 福島県浜通りの双葉中学に通っていた中学3年生のある日(昭和20年春)、通学に使っていた常磐線が空襲で不通になり、線路を歩いて帰った。何故か、下級生と二人だけだった。いきなりP51という、めちゃくちゃにカッコいい米戦闘機が上空で旋回し、機関砲をうちながら私にまっすぐ向かってきた。いや怖かった。線路の土手にうっぷして顔を地面にこすりつけ、びくとも出来ずにへばりついていた。動くもの何にでも攻撃すると聞いていたから全然動けず、顔も上げられない。お陰で、後になって空襲の話などで「操縦するアメリカ兵の顔をみた」という話を聴く度に「ほんとかな」と思ってしまう。横を見るときは高いから操縦士など見えない。見えるのは自分に向かって急降下して来るときだろう。そんな時は怖くて顔の確認どころじゃなかった。
 こうした艦載機(戦闘機)の来襲は学校から3キロばかり南にある飛行場の攻撃が主目的のようだった。日本の飛行機は迎撃しない。飛ぶのはいつも敵機が帰ってからだった。飛行場も飛行機も大丈夫だったよ、というデモだったのか。赤とんぼと言われた複葉の練習機ばかり。それで特攻隊の訓練をしている、という噂だった。子供心にも「あれじゃ駄目だ」と思った。
 戦闘機の機銃掃射を受けたことは何度もあるが、自分に向って火を吹いてきたのはあれが二度目だった。最初は其の少し前、2年生の3月末。九州の久留米の近くを汽車で旅していた時。いきなり急停車し、線路わきの雑木林に飛び込めと怒鳴られた。とたんにバリバリと機銃掃射。あれは機関銃だったろう。列車が狙われた。林の中だから木にしがみついて見ていた。誰かに当たったらしいが怖くて見に行けない。しばらくして列車にもどったら屋根や窓が無残に壊されていた。しかし、汽車は動きだした。機関車はとンネルに入っていて無事だったのだ。沖縄戦が始まったのは此のすぐ後だった。
 P51にやられた中学の傍の飛行場には戦後原子力発電所ができた。戦争中は特攻要員の訓練に使われ、戦後は原子力発電に使われ、そのあげく爆発して学校(現双葉高校)も双葉町も全然人の住めないところにしてしまった。運の悪い土地だ。土地の神様はさぞ人間を恨んでいることだろう。
コメント
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