某年金生活者のぼやき

まだまだお迎えが来そうに無い

9.11 とグローバリズム

2010-02-26 19:21:24 | ぼやき
 木畑洋一先生が成城大の来学期の「学びの森」セミナーで「グローバル・ヒストリー」の講義をなさるというので、先日その予告編のようなミニ講義を聴きに行った。お聴きして、思い出したことがある。
 ニューヨークで9.11の大惨事が起きたとき、私はアイルランドのダブリンにいた。部屋に戻ってテレビをつけたら、首相のアハーン氏が深刻な顔で話していた。誰が亡くなったのだろう、と思ったら、旅客機が塔に突っ込む写真が出て、何だこりゃ、と度肝を抜かれた。
 その数日後、ヨーロッパ全土で(アジア、日本などでどうだったかは知らない)追悼のミサ、礼拝が一斉に正午から行われた。アイルランド(英国も)は時差1時間なので、11時からになった。私もダブリンの仮大聖堂(仮しかない)の外の道路でミサに参加した。まず3分間の黙祷。キョロキョロあたりを見回していたら、右手の上から40歳くらいの女性が緊張した面持ちでプラカードを掲げて静々と歩いて来た。プラカードには英語で「真のテロリストは誰か。USA。グローバリゼイション」と三行で大書されていた。
 黙祷中だから誰も手を出せない。警官も動けず、彼女が道路に立つ人々すべてにプラカードを見せ終わった頃黙祷が終わった。警官はすぐ彼女を抑えプラカードをもぎ取った。道路にいたのは大部分がアメリカ人観光客だから、盛んな拍手が沸いた。
 ミサが終わって、中にいた大統領・首相・各国大使らが出てくる頃、アメリカ人の女性達が国歌を歌い出した。出てくる要人、高官たちは皆立ち止まって聞き入った。アメリカ人?の多くは涙を流しながら聞いていた。この人たちの前で、先ほどの女性は良くあれだけ勇敢なことが出来たものだ、と改めて感心した。己の信ずることを訴える強さに私は打たれた。
 
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2.26事件の思い出

2010-02-26 17:11:48 | ぼやき
 思い出と言っても、私はまだ5歳だったから事件を知ったわけではない。その頃の家は東京市中野区上高田。今思うと、中野の憲兵隊と三井墓地の間にあった。
 あの朝は雪が積もっていた。いつも遊び場にしている原っぱに行ったが、誰も出てこなかった。一人で雪合戦用の玉を作っていたら、兵隊さんが来て「危ないからお家にかえりなさい」といった。家に帰って母に「憲兵さんが危ないからお家に帰りなさいって」と言った。母は多分「そう」くらい言ったのだろう。だが、何故危ないのかは母にも私にもわからなかった。暫くして家の前を何人もの兵隊が通った。小学校に上がる1年1ヶ月前のことなのに、はっきり覚えている。多分、いつも遊んでいる原っぱが何で急に危なくなったのか、腑に落ちなかったからだろう。
 あの日が2.26だったのだ、と気がついたのはもう中学生になってからだった。今思うと、あの事件では財閥も狙われたから、三井家の広大な墓地(今はそこに三井文庫がある)が襲われるといけない、と兵隊が派遣されたのだろう。玉砂利の先にあった墓は巨大な円墳だった。
 福島での中学の同級生に、名刹の住職で大僧正になったのがいる。彼もこの頃は東京にいた。26日の朝、彼は父親(やはりお坊さん)につれられてタクシーに乗り、都心のホテルなど兵隊がたむろしているところをグルグル見て回ったという。後年父親に「なぜ反乱軍の見物に5歳の私を連れて行ったか」と聞いた。歴史的大事件だから子供にも見せておこうと思った、くらいの立派な返事を期待していたのに「子連れなら警察に怪しまれないと思ったから」と言われてがっかりしたという。子供の使い道にもいろいろあるものだ。
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