ボストンにあって千島を想う

2012年08月27日 | Weblog



▼いま、ボストンにいます。
 独研(独立総合研究所)の首席研究員(兼・代表取締役社長)としての出張です。
 ボストンは、アメリカ合州国(合衆国ではありません)の原点ともいうべき古都です。
 ハーバード大学があることでも知られています。
 しかし、そのハーバードには、中国の支配層や富裕層の子弟らがどっと押し寄せていて、彼らのなかには「ハーバード大学は今や、第二の中央党校(中国共産党の幹部養成学校)だよ」と自慢げに公言する人物が一部にいることも、かねてから知られています。

 ハーバードのキャンパスもボストンの街並みも美しい。
 けれども、ここもまた、世界の現実を知るべき場所でもあります。
 もっとも、今回ぼくがボストンにやってきたのは、中国とは何の関係もありません。

 ただ、ボストンは、中国の支配者やお金持ちがアメリカにいかに憧れているかが分かる場所のひとつではあります。
 共産党の独裁によって、膨大な数の中国人の生活や希望を抑圧し、それでいて、その独裁の利益を恣(ほしいまま)にする者たちはアメリカの自由と豊かさに憧れ、アメリカに押し寄せ、独裁に役立てるための科学技術を習得したりもするけれど、もっぱら国内と世界に対して虚勢を張り、箔を付けるためにハーバード大学すら含めて、アメリカで権威を「買う」。

 もちろん、そうではなく学問を追究するためにこそ夜昼問わず努力している、中国からの留学生もいます。同時に、こうした奇怪な現実があるのも事実です。
 それは、アジアの自由のために、日本が果たすべき役割がどれほど大きいかを物語ってもいます。
 2012年の夏の終わりのボストンに居て、あらためて、ふとこう考えます。


▼このボストンに来るために、ぼくの乗った飛行機が超えていったのは、千島列島が続く北の海です。
 そこからカムチャッカ半島をかすめるように、夏なお冷たいベーリング海を越え、アラスカに入り、北カナダの上空を経て、アメリカ東海岸のボストンに降り立ちました。

 機中で、いつものように睡魔と戦いつつ、映画をちらちら眺めながらモバイルパソコンで仕事をしていて、胸のうちは正直、悲しみでいっぱいでした。

 寝静まっている機内で、パソコンのキーを打つのは、当然ながら気を遣います。打音がしないように、キーを撫でるように文字や数字を入れていきながら、こころの眼は、足の下の機体を透かせて、北の海と島々を万感とともに見つめていました。
 それは、日本の海と島々です。

 千島の全島が、いまも、わたしたち日本国民の領土です。
 南樺太と合わせ、日本の最北の領土です。
 樺太の北半分とカムチャッカ半島はロシア領ですが、それより南はすべて日本国です。

 ところが、ぼく自身も含めて、敗戦後の日本国民みんなが、日本の北方領土とは四島だけ、すなわち「千島列島の南端の択捉島と国後島、そして千島列島ではなく北海道本体に連なっている歯舞諸島と色丹島の四島だけだ」という嘘を教わってきました。

 千島列島のいちばん北の端、占守島(しむしゅとう)に1945年8月18日、ソ連軍が日ソ中立条約を勝手に破って侵入してきたとき、すでに武装解除を始めていた帝国陸海軍は、たとえば島の缶詰工場で働いていた500人近い女子工員を護るためにも、もう一度だけ武器をとって戦いました。
 この時、すでに第二次世界大戦は終わっていましたから、ソ連軍の行為はもはや国際法で言う「戦争」ではなく、単なる侵入、殺人、傷害、強盗、窃盗、強姦といった犯罪行為です。
 わたしたちの、たった67年前の先輩方は、侵入者にいったん勝ったうえで、そののち再び静かに武器を置き、戦車を降りました。
 祖国が降伏した以上、それ以上の戦闘は、私闘になるからです。

 この占守島の戦いは、人間の尊厳を示した戦いです。
 たとえば、第11戦車大隊を率いた池田末男大佐は、陸軍戦車学校で人間性豊かな教官であったことが、当時の教え子で、敗戦後に作家となった司馬遼太郎さんの著作に敬愛を込めて出てきます。
 池田大佐の戦車隊は、いったん兵装を解いていた戦車を組み立て直し、侵入者のソ連軍を撃破します。みずからは、44歳にて、軍服ではなくワイシャツ姿で戦死なさいました。
 氷点下15度を超え猛吹雪に晒される占守島で、ご自分の着衣は常にご自分で手を凍らせて洗い、それは自分の仕事でありますと言う当番兵に、「お前は俺に仕えているんじゃない。国に仕えているんだ」と、さらりおっしゃったそうです。
 この池田大佐をはじめ日本の将兵の献身によって、島で働いていた女性たちは、多くは北海道に生きて戻ることができました。
 そして、みずからを武装解除した将兵は、ソ連軍によって拉致され、シベリアへ送られ、強制労働と飢えと寒さと傷病に斃(たお)れ、その多くが祖国を再び見ることはありませんでした。

 わたしたちは、義務教育だけで小中の9年間、そして、ひとによっては高校、大学も加えて16年か、それ以上の長きにわたる歳月の学校教育を受けます。
 しかし、たとえばこの占守島の戦いも、千島全島と南樺太が日本の領土であることも、まったく教わることがないというのは、いったい、どうしたことでしょうか。

 日本国民が「北方領土とは四島だけ」と思い込まされているから、ロシアの独裁者、プーチン大統領は「歯舞、色丹の二島だけは返してやっても良い」という姿勢を見せ、それを踏まえた「北方領土交渉」を日本政府は、10月にも再開しようとしています。
 しかし、たとえば、樺太をロシア語でサハリンと呼ぶことに、マスメディアも政治家も教育者も慣れきっていて、したがって国民もそう思い込まされている現状では、いったい、何の交渉でしょうか。
 歯舞、色丹は、四島の半分ではありませぬ。国後、択捉の二島とは、比べものにならないぐらい小さいのです。

 もう一度、申します。
「ぼくらの祖国」というつたない書を世に問うたのは、こうしたことを、日本国民が今までの立場や意見の違いも超えて、超克していくことに、わずかながら貢献するためです。
 このひとつ前のエントリー(書き込み)で記したように、「ぼくらの祖国」をひとつのテキストにして子供たちと語る機会があれば、と考えています。
 ぼくは、全国どこへでも、行きます。そして、決まった形式、決まった手続きがあるわけではありません。
 ぼくの日程は詰まりに詰まっている現実も確かにあります。しかし、ご縁と、志があれば、きっと機会はあります。


▼さて、ボストン出張のために、今週の関西テレビの「スーパー・ニュース・アンカー」(水曜日)と、ニッポン放送の「ザ・ボイス」(木曜日)はいずれも残念ながら、参加(出演)できません。
 RKB毎日放送の「スタミナラジオ」のぼくのコーナー「インサイドSHOCK」は、ボストンとスタジオを電話で繋いで、いつもと同じようにやります。

 やる、やらないは、蛇足ながらぼくの選択ではなくテレビ局、ラジオ局の選択です。
 まぁ、ふだんから「スタミナラジオ」だけは、ぼくはスタジオには行かず、RKB毎日放送のある福岡と、ぼくの国内出張先を電話で繋いで参加(出演)しているので、海外に行っても変わらないというだけです。

 アンカーやザ・ボイスのようにスタジオに出向いて生放送に加わっている番組に、海外から電話や中継などで参加するのは、コストを費やし準備を整えないとできませんね。
 ぼくとしては、それでもやりたいのが本心ですが、無理筋でしょう。

 来週は、もう日本に帰っていて、いつものように放送できますから、よければ視てください、聴いてください。
 いずれの番組も、ぼくの話は謙遜でなく、いつまでも拙(つたな)いばかりですが、あとで振り返れば、一回一回が貴重だったなと考えるときが、いつかは来ます。

 写真は、ボストンのホテルの部屋からみた夕陽です。


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