ささやかな人生で、おそらくは転機になる11日間(その2)

2005年05月05日 | Weblog
▼4月26日の火曜日

 朝、ホテルを出て、伊丹から羽田へ飛び、タクシーで麹町へ。
『労使トップフォーラム特別セミナー』で講演。
 冒頭に、きのう起きたばかりのJR西日本の事故について、すこしだけ触れ「置き石はなかったと思う」と話した。
 この時点ではまだ、新聞各紙も「置き石が脱線原因の一つになった可能性がある」と書き、JR西日本の「レール上の白い破砕痕は、置き石とみられる」という会見内容を実質的に肯定していた。

「この段階で、置き石はなかったと申しあげるのは、冒険かも知れません。しかし、なかったと思います」と、ぼくは言った。

「あの事故を起こした通勤快速の、わずか3分前に、なにごともなく特急が通過していますね。ということは、その3分の間に、誰かが置き石をしたことになります。だけども、置き石というものは、小さな石ならむしろ日常茶飯事のように置かれていて、それぐらいでは脱線しません。しかも、事故現場の周りは、電車の突っ込んでいったマンションをはじめ町工場や住宅が集まっていて、すなわち人目が多い場所です」

「つまりは、午前9時過ぎという白昼に、人目の多い場所で、大きな障害物を、特急と快速のあいだのたった3分間で、誰かが素早く手品のように置いて、目撃もされずに去ったことになります。こんなことは、ほぼあり得ません」

「JR西日本は、記者会見で、ほかのことはすべて、まだ分からない、現時点では分からないと言いながら、可能性の極めて少ない置き石だけは、その可能性が強いと言い切りました。置き石がほんとうだったかどうかは、いずれ結論が出るでしょう。その結論が何かは、今はまだ言い切れません。しかし事故直後のいまでも、すでに言えることは、JR西日本が明らかに、姿なき『置き石犯人』に責任を転嫁しようとしていることです」

「これが人の道、正義にもとることはもちろんです。そして、きょうの受講者のかたがたは企業の幹部のかたも多いから、もう一つを言っておきましょう。JR西日本の、あの愚かな記者会見は、危機管理から言っても、まったくの間違いです。記者会見は、危機の続きではなく、危機回復の第一歩です。その第一歩で、このような責任転嫁をしたことは、必ずあとで問題になり、かえってJR西日本という巨大企業を追いつめるでしょう。みずから首を絞めているのです」

「ぼくがいま言っていることが正しいかどうか、やがてみなさんは検証できます」
「怒りが込みあげてきて、この話だけで講演が終わってしまいそうですから、もうこの件はやめておきますが、余談をすれば、取材記者にも注文がありますね。なぜ記者会見で、冷静に、そんな3分間の手品のような置き石はあり得ないだろうと質問できなかったのか。なぜ、置き石があり得るかのように記事を書いて、それが新聞紙面に載っているのか。事件事故の取材という、メディアの取材力にとってもっとも基本になる力が衰えているのを感じます」

 ぼくは、胸のうちで、ほんとうに怒りに震えていた。

 このあと、ふだんの講演内容に戻り、午後2時45分ごろに終了。
 大急ぎで、タクシーに乗ろうとすると、外は突然の激しい雨だ。
 雨足で白く閉ざされたような東京を走って、東京駅へ。
 新幹線に飛び乗り、また西へとって返す。
 あえて同行者は付けなかった。
 大阪を過ぎ、姫路駅で降り、日が暮れたなかをタクシーで兵庫県龍野市のお寺へ。
 年配のタクシーの運転手さんは、なにも確かめずに走り、道に迷って、暗い田んぼのなかで立ち往生。それでいて、通行人に聞くこともしない。うろうろとタクシーを走らせるだけだ。
 この国の働くひとの無責任、プロフェッショナリズムの喪失は、なにもJR西日本だけじゃない。
 事故を起こした高見運転士が若いから、「最近の若い人の働きぶりは…」という声も聞くが、いいえ、違います。
 世代の問題じゃない。年配のひと、中年のひと、若いひと、世代を問わず、日本の働き手からプロフェッショナリズムが失われつつあるのです。

 呆れながら、ぼくが通行人に聞き、お寺へ電話し、地元をなにも知らない乗客なのに道を探して、ようやくに到着。

 薄暗い通路の向こうに、お通夜がセットされた寺の境内がみえる。
 あれが、わが友のお通夜だとは、まだ信じられない。

 受付を済ませると、福ちゃんにそっくりのお父さんがいらっしゃった。
 息子の葬儀の喪主になるのは、年を召されたお父さんにとっては、どれほど辛いことだろうか。
 ぼくは深々と頭を下げ、読経の座のなかに入った。
 河本三郎代議士と、福ちゃんの若い奥さんのむこうに、お棺が横たわっている。
 代議士に「顔を見てやってくれ」と言われて、お棺に近づき、福ちゃんに会う。
 穏やかな表情だったが、ぼくは、ああ福ちゃんはもうここにはいない、抜け殻だ、魂は別のところにいる、と感じた。
 福ちゃん、あの夜、俺のところに来て、なにを言いたかったんだ。

 読経が終わり、奥さんに挨拶をしていると、奥さんが福ちゃんの最後に書き残したメモを見せてくれる。
 奥さんが差し入れた本のカバーの裏に書いてある。
 素晴らしい字で、「病気になったことを契機に、命の大切さ、愛の大切さを知った。病気にならなければ、あのまま漫然と仕事をし、毎日を過ごしていただろう」と書かれていた。
 福ちゃんの澄んだ心の眼を、ありありと感じて、ぼくは頭を垂れていた。

 お寺の隣にある福ちゃんの生家に向かいながら、「実は、福ちゃんが魂になって会いに来たようです」と奥さんに話す。
 そして「福ちゃんは、ぼくにとって、生まれる前から知っているような人だったんです」と話した。

 そう、生前の福ちゃんに一度も言ったことはないが、福ちゃんは、ぼくにとってそういう人だった。
 生まれる前から知っているから、なんとも言えない懐かしい感じのする人だった。

 福ちゃんの生家で、ひさしぶりに旧河本派の秘書の人びとと会う。
 こうしたとき、お料理に手を付けるのが礼儀だから、箸を付けるが、お腹がすいているのに一口しか食べられない。
 秘書さんたちから、福ちゃんの短くて激しい闘病生活の一部始終を聞く。
実は手術後の早い段階から、奥さんと一緒に「余命は3か月」と告知されていたのだという。
 福ちゃん、なぜ、生きている間に、ぼくに連絡してこなかった。
 ぼくのあまりの忙しさに、きっと遠慮したんだろう。
 遠慮するなよ、友だちじゃないか。

 タクシーで姫路駅へ戻り、新幹線で大阪へ。
 もう東京に戻る便はない。
 大阪の定宿のホテルに入り、朝を迎えた。
 窓の外の高速道路を、車が走るのを見ていると、福ちゃんがもう大阪へ来たり、車を運転したり、そういうことが何もかもできないんだと、胸に迫ってくる。


▼4月27日の水曜日

 朝早く、再びホテルを出て、伊丹から羽田へ飛ぶ。
 独立総研に出社し、社長としての雑務。
 そのあと、東京・目黒にある海上自衛隊の幹部学校へ。
 独立総研の上席研究員と専門研究員が同行。
 日本海海戦に勝った東郷平八郎元帥の書が掲げられた学校長室で、しばし懇談したあと、ともに昼食をとる。

 そのあと、海上自衛隊の幕僚課程などに在籍する学生(海上自衛官)たち、幹部学校の幹部たち、それに韓国海軍からの留学生ふたり、インド海軍からの留学生ひとりのまえで「講話」をおこなう。
 講話とは、一般的に言えば講義のことだ。
 わたしたちの民主主義のための海軍力について、3時間ほど、休まずに、ぼくなりに懸命に話した。

 独立総研に帰り、PHP出版の若手編集者と話したあと、急ぎの原稿を執筆、送稿する。
 自宅にたいへんに帰りたかったけど、会社の社長室に泊まり込む。会社の経営は、人事から財務、営業、決算とすべてを把握して動かさねばならないし、なんのヒモも付いていない、無借金の独立総研は、前へ前へと積極的に進まねば倒れてしまう。
 独立総研は、文字通りの独立性、自主性を保つためにこそ、株式会社でいる。
 幸いに、創立3年目にして早くも黒字転換する決算見通しとなっているが、油断は禁物だ。
 決算見通しは、もはや過去のこと、考えるべきは、来期(05年7月から06年6月まで)なのだ。

 戦う若き主任研究員のJちゃんも、研究本部で泊まり込んでいる。


▼4月28日の木曜日

 朝、講義に備えて、会社近くのサウナへ行き、わずかな時間だけ湯に浸かる。
 そして防衛庁へ。
 きょうは防衛庁に入庁した国家公務員Ⅰ種(いわゆるキャリア組)と、国家公務員Ⅱ種の文民職員に対する、初任研修の最終日だ。
 ぼくは、最終日の最終講義として、講義する。
 2時間半、きょうもぼくなりに(非力なりに)力を振り絞って、お話しした。

 講義のあと、防衛庁の幹部ふたり、独立総研の主任研究員ふたり、専門研究員ひとり、それに総務部秘書室の新人、A秘書とともに、昼食会。

 そのあと、ひとりで新宿へ。
 情報源と久しぶりに会い、そのあと、完全にひとりになって東京コンフィデンシャル・レポートを執筆。しかし、いまだ未完。

 夕刻、独立総研へ戻る。
 みなで会社を出て、近くの店へ。『新人歓迎会・兼・年度末の打ち上げ会』を開く。
 OB、OGからも参加してくれた。
 独立総研の専門研究員を経て、NHK記者と、外資系投資会社員へと巣立ってしまったふたり、それに総務部秘書室を家庭の都合で最近退職したYさんの3人だ。
 久しぶりに顔をみて、とてもうれしかった。

 ただ、主任研究員や研究員、専門研究員で参加しなかったひともいて、それは、寂しかった。ちょっと自分でも意外なほど、寂しく思った。
 これぐらいで寂しく思うことは、ない。
 なのにどうしてか。
 それを、おのれの胸のうちに問うてみる。
 独立総合研究所、独立総研、独研というところは、やはり最前線の砦であり、最後の拠り所でもあって、すごく大切に思っているんだろうな。

 シンクタンク、それも一切、ひも付きじゃなく借金も1円もない、文字通りに『独立』のシンクタンクの社長、それに物書き、テレビ・ラジオ・講演・講義をするひと、これらを一度にやっていくのは、正直、心身ともになかなか困難だ。

 一度切りの命を、ことごとく捧げてもなお、なにも理解されないような、志が伝わらないような…徒労感がさぁと風のようによぎることがある。
 それを、食い止め、建て直してくれるのは、独研なんだろう。

 そして、それは社長であるぼくだけのことじゃない。
 僭越ながら、こんな会社、ほかにない。縁があって独研に集まり一緒に働く仲間、みんなにも同じだと思う。

 講演会で、ときどき独研のことをお話しする。
「独立総合研究所は、株式会社ですが、それは自主性、独立性を保つためであり、営利を追求するためではありません。経産省のある局長さんが、ぼくに、それは商法の趣旨と違いますねとおっしゃったことがあり、ぼくも、ちらりと『間違っているのかな』と迷ったとき、偶然に高知へ出張しました」

「高知県警本部でテロ対策をめぐる協議をしたあと、すこし時間があったので、隣の高知城へ行ったのです。幕末の志士に関する展示がありました。ぼくは高校生の時から幕末が好きで、坂本龍馬や中岡慎太郎のことはなんでも知っているつもりで、ぼんやり見て回っていました」

「そのとき、龍馬のつくった『亀山社中』の資料のまえで、足が止まりました。亀山社中は、日本最初の民間会社です。しかし会社であったのは、あくまでも自分の食い扶持(ぶち)は自分で稼ぎ、自主性、独立性を保つためで、目指すのは日本の改革でした」

「ああ、ぼくらの独研と同じだ。ぼくは、そう思いました。しっかりと自立しつつ、日本のほんとうの独立と改革に、ささやかにでも寄与するのが株式会社・独立総合研究所だと、思いました」

 亀山社中のことは、高校生の頃から好きだった。
 だけども今、独研を経営しつつあって、亀山社中がなにに取り組んでいたか、その先進性を初めてほんとうに理解したと思う。
 独研も、みずからをみずからで養って自立し、祖国の改革にいささかなりとも寄与するだけだ。ぼくは高知城の畳のうえで、そう考えた。

 この日の飲み会で、ぼくはきっと雄弁だった。記者時代の経験も含めて、みなに一生懸命に話してもいただろう。
 だけど、その雄弁は、ちょっと寂しいことの裏返しでもあった。
 そして、それだけじゃない。
 みなに、OB、OGをも含めて、独研で働く意味をもう一度みんなで、考えてほしかったからでもあった。


▼4月29日の金曜日 昭和天皇の誕生日
          (この日が『みどりの日』って、いったい何のことだ)

 この日は、『朝まで生テレビ』に出て、闘わねばならない日だから、自宅へ帰って朝を迎えたかったけど、やっぱり独立総研で朝を迎える。
 それでも、祝日であるおかげで、午前中に自宅へ戻り、近くのジムへ出かける。
 ダンベル、バーベルを挙げ、プールで泳ぎ、心身を例によって無理にでも目覚めさせて、夜にいったんテレビ朝日指定のホテルへ入った。
 そこから午前0時20分ごろ、テレビ朝日へ。

 今回の『朝生』は「反日暴動と、日中新時代』がテーマだったから、予想通りに、中国から日本の大学に就職しているひとたちも、パネラーとして参加されていた。
 8割は、日本国民の感情にあえて沿わせる話をされながら、残り2割の肝心なところで、するりと話をかわす、そらせる、実は中国にとって都合のよい話に変えてある、という議論も、なんどか繰り返された。
 ぼくは以前よりは、蛮勇をどうにか無理にでも絞り出して、人の意見にいくらかは反論するようにはなっているけど、まったく不充分で、出演を引き受けた以上は果たさねばならない責任を、果たしていないと思う。

 それと、中国のかたがたと、こうした公開の場で議論するときには分かっていなければならない点がある。それをよく事前に考えないまま、ぼくは番組に出ていたと思う。

 ぼくは中国にもずいぶんと行っている。30回を、大きく超えている。
 そのほとんどが仕事として、それも当局者、軍関係者、学者、シンクタンク幹部らと議論をする仕事のために、行っている。
 番組でも触れた朱福来さん(米軍の駐ユーゴ中国大使館への誤爆で、実の娘とその夫を失った学者)をはじめ、中国に友だちも少なくない。
 すなわち、中国の人と、たくさん議論をしてきているけど、やはりアメリカ人と比べるならば議論の機会が少ない。
 それも影響して、中国の人と議論するときに、とくにテレビ番組のような公開の場では、アメリカ人と違って特別な心構えが必要なことがわかっていなかったと思う。

 アメリカ人は、中国の人とは対照的に、8割は、正面からこちらと衝突しながら、残り2割では、なんとか妥協と合意をつくれないか探るし、それも本音で探るという気がする。
 ちょっと甘い評価ではあるけれど、おおむねは、そうだと思う。

 それにアメリカ人は、わたしたちの広島と長崎に原子爆弾を落として、あるいは東京を焼き払って、女性や子供や老人を殺害した国の人であるから、こちらも議論のときに遠慮しない。
 しかし、中国に対しては、とにもかくにもこちらが侵略した側だから、どうしても遠慮があったと思う。

 番組で、中国のかたが発言されたなかには、どなたがどうとは決して申さないが、非常に巧みに日本国民の耳に馴染みやすい装いを施していながら、その実、深い誤解を日本国民に与えるものが少なからず、あった。
 それを、きちんと正すことがなかったのは、ほかのパネラーがどうこうは関係なく、ぼく自身の責任として、役割を果たしていなかったと思う。

 やれやれ、それにしても『朝生』は、辛い番組です。


▼4月30日の土曜日

 早朝5時過ぎ、テレビ朝日からいったんホテルへ戻り、2時間ほど仮眠してから、帰宅する。
 東京コンフィデンシャル・レポートのための取材を、電子メールを使って、やり直す。
 夕刻、アウディ・クワトロ80を運転し、情報源のところへ出向く。

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1 Comments

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帰郷の折は (高橋敏之)
2005-05-20 11:44:58
こちらの方に帰られた時にタクシーは大変でしたね。



帰郷された折は、僕も中野さんもいますので、時間を問わず、遠慮せずご連絡ください。



できるだけのことはさして頂きたく思っております。
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