青年たちはプラハを目指す その2

2012年01月29日 | 海外旅行
 前回の続き。

 「百塔の都」と呼ばれるチェコの首都プラハに到着した私。

 まるで、中世にタイムスリップしたかのような街並みに美女ぞろいと、眼福この上ない古都プラハ。

 プラハといえば個人的に好みなのは、かの三十年戦争のきっかけとなったあの事件。

 ヨーロッパを破壊し尽くしたこの凄惨な戦争の発端は、キリスト教の縄張り争いで、カトリックとプロテスタントのいがみ合いが原因となっている。
 
 なにかと自分たちを迫害しようとするカトリックの王様に切れたプロテスタントたちが、「ええかげんにさらさんかい!」とばかりに、なんと王の使者を王宮の窓から、

 「どっせい!」

 と放り投げたというのが戦争の引き金となったのだが、その事件というのが世界史の教科書によると、

 「プラハ王宮窓外放出事件」。

 いや、まあたしかに名前をつけるとそうなんだけど、「ドレフュス事件」とか、「盧溝橋事件」といわれると、「歴史の一大事」という感じがするが、

 「プラハ王宮窓外放出事件」

 といわれると、たいそうな名前の割には、中身はただのケンカだ。そのマヌケさ加減がいいので、お気に入りの世界史用語である。

 それはともかく、プラハではユースホステルに宿泊した。

 宿代の高いヨーロッパでは、ユースホステルが便利。一部屋に二段ベッドがいくつか置いてある、いわゆる相部屋方式の宿泊施設である。

 油断すると荷物を盗まれたり、同室の仲間がちょっと怪しい奴でアレだったり、いびきがうるさくて眠れなかったり、寝ていたら突然上の段で男女がベッドをギシギシ揺らす、マーベルでファンタスティックな行為を始め、あきれたりもすることもあるが、まあ大抵は快適で安全である。

 また、ユースの醍醐味といえば、世界中から集まってくるバックパッカーたちと仲良くなれること。プラハのユースでは、ジョージというオーストラリア人と同室になった。

 ユースを利用する白人旅行者は陽気で気のいいやつが多いのだが、やはりジョージもそういったフレンドリーな男であった。彼とはすぐにうち解けることとなったた。

 もちろん、コミュニケーションは英語である。私の英語力はたいしたものではないが、そこはジョージも気を使ってゆっくりと易しい単語で話してくれたので、だいたいは理解することが出来た。

 次の日、一緒に朝メシを食っていると、彼がこんなことを言いだした。「一緒に、観光しないか」。

 国際交流である。これこそが、ユースホステルの出会いである。

 さすがは私、海外に出かけると行っても、そこいらの素人観光客のように、ちゃちゃっと観光地をめぐるだけの浅い旅ではない。このように、外国人とも臆することなく交わっていくのだ。

 ジョージも私から、そのインターナショナルなオーラを感じ取ったのだろう。だからこそのお誘い。国際人の私は、もちろんのことOKし、二人でプラハの街に出たのであった。

 プラハは噂に聞く以上に美しかった。ジョージはなんでも、大学で中世欧州史を専攻しているそうで、街並みのひとつひとつに感嘆し、「……beautiful」「……marverous」としみじみとつぶやいていた。

 そうであったか。異国の地で、こんな知的な男と知り合うなんて、さすがは国際人の私である。こういうのを、「類は友を呼ぶ」というのであろう。

 そんなインテリゲンチャであるジョージは、街を見ながら「ヤン・フスが」とか、「神聖ローマ帝国の時代は」などと、歴史の講義までしてくれた。

 ありがたいことに、ガイドまでしてくれているわけだ。オーストラリアの知識人と、中世ヨーロッパの歴史にについて語り合うオレ様。

 国際人もここに極まれりであろう。ガラパゴス化と揶揄される、島国日本人には、こんな開かれたコミュニケーションなど取れないに違いない。まったく、たいした男であるといわざるをえない。

 と、日本人の夢である国際交流を今果たし、鼻高々になっている私であったが、まさかその先に大きな落とし穴が待っていようとは。

 ジョージと私の友情に、何が起こったのか。

 さらに続きます。



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