「でもウチらが若いころインターネットがなくてよかったと思う」
「うん、ネットのない時代に知らん国歩けてよかったよね」
先日読んだ『深ぼり京都さんぽ』という作品の中で、そんなことを言ったのはマンガ家でイラストレーターのグレゴリ青山さんであった。
「未知」のおもしろさか「便利」の快適さか。
今では「スマホなしで海外旅行」など、まず考えられないだろうが、昔はそれがごく当たり前の話であった。
私が主に海外旅行を楽しんでいた、90年代後半から2000年代初頭でも、ネットを利用するとなると現地のインターネットカフェを活用するくらいで、日本語対応のパソコンもないことも多く、あまり便利とは言えなかったのだ。
なのでグレゴリさんのような「なし」の時代のリアリティーも、十分すぎるほど理解している世代だが、ではこれが
「ない時代に歩けてよかった」
これに賛成なのかと問うならば、そこはもう断然
「ネット万歳派」
これなのである。
というと、かつてのバックパッカー仲間から、
「裏切り者」
「堕落したな」
「フ、ド素人が」
バカにされそうだが、いやー、これはホンマにそうなんです。
ネットで宿や乗物の予約ができて、地図もナビしてくれて、調べものもチョチョイノチョイの今の状況が、とっても楽ですばらしい。
と言いたくなる理由に、まず宿探しが嫌いということがあった。
今はあらかじめ予約して、ナビの示す通りに行けばホテルやユースホステルにたどりつけるが、いにしえの時代はそうはいかない。
自由旅行をしていると、まず空港や駅についたところから、自力で宿を探さなければならない。
これがしんどい。ロッカーでもあればいいけど、そうでない場合は重い荷物を背負って、街をさまよわなければならない。
「ホテル街」(というとなにやら誤解をまねきそうだな)があればいいけど、そうでないと1軒1軒の間が遠くて足がガコガコになる。
で、手あたり次第に良さそうな宿(これを選別するのも手間だ)をめぐっては「空いてますか」と聞いて回るのだが、これが大変だし、部屋を見せてもらって満足できないことも多い。
そもそもシーズン中や、夕方くらいに街につくと、どこに行っても「full」の札が揺れており愕然とする。
この「今日の宿が見つからない」プレッシャーはなかなかのもので、暗くなると、ほとんど恐怖になる。
しかも、仮に首尾よく宿が見つかったとて、そこからまた、ロッカーの荷物を取りに駅などに戻らないといけなかったりする。
もう、これがしんどすぎて、実際かつてイタリアを旅行したとき、8月のフィレンツェでは、どうしてもリーズナブルなホテルが見つからず、ボロボロになったことがあった。
マジで野宿を覚悟したが、それに同情したある宿のおばあちゃんが、物置に使っている部屋を空けて、そこに格安で入れてくれたが、あの親切がなかったらどうなってたことか。
下手な外国語でチケット買ったり、迷子になったり言葉がわからないとかいうのは平気なんだけど、この「歩いてホテル探し」の苦痛が、とにかくネック。
マジでこんな感じです。
ガイドブックなどには、
「ホテル探しの道程も、街歩きや観光の一環として楽しみましょう」
とか書いてあるけど、看板探すのに必死で街のことなんか見られないし、そもそも「泊まるとこなかったら、どうしよう」と不安でちっとも楽しめないよ!
てゆうか、ホテル探すくらいなら、その時間でゆっくり観光したい!
なんてグチばかり言っていたものだが、このホテル探しを今はしなくてよくなったため、文明の利器バンザイ派なのである。
この一点だけでも、人類はインターネットを開発した意義がある。ほめてつかわすぞ。
もちろん、いいことの中に失われたこともあるわけで、私の場合は前日の夜などに「明日どこに行こう」と考える自由さだ。
ネットで宿の予約をできるのは無敵だが、一回取ってしまえば絶対にそこに泊まらなくてはならない。
その点、宿など事前に決めようもなかった時代では、そのあたりをメチャクチャいい加減に決められた。
それこそ、パリで明日ロンドンに行こうと決めていても、その日の気分や旅行者同士の情報交換で惹かれたら、突然イスタンブール行きの長距離バスに飛び乗ったり。
コペンハーゲン行きの夜行列車に乗ったり、マルセイユから船でアルジェリアに渡ったりもできる。
その突発性の魅力。
なにも決めずに、ユースのベッドで寝転がってとか、あるいは朝コーヒーを飲みながら「トーマス・クック時刻表」をめくり「次の目的地」を思いつきで考える楽しさ。すぐ動ける軽やかさ。
それがなくなってしまったのは残念で、その意味でグレゴリさんも、
「ネットなしで海外って、すげえな」
おどろいていた友人ヤオ君も、どちらの旅行者の気持ちも理解できるのだった。