前回の続き。
米長邦雄名人に羽生善治四冠(棋聖・王位・王座・棋王)が挑戦することとなった、1994年の第52期名人戦。
挑戦者の3連勝からスタートするも、名人も2つ返して第6局に突入。
星の上では羽生がまだ有利だが、第4局を「浮ついていた」という気分で指して敗れ、第5局は勢いに押されて完敗と、流れは相当に悪くなっている。
むかえてこの第6局を、羽生は必勝の気合で挑むことにする。
もしこれを負けてもまだ最終局があるが、そうなったらとても勝てる気がしないだろう。
ここを実質のファイナルセットと考えて角換わりを採用し、米長が右玉でいなそうとするのを「攻めよう」とだけ決意して、棒銀で打って出る。
△35歩と突っかけたところで、羽生はとりあえずホッとしたという。
形勢うんぬんという局面ではないが、ともかくも先に仕掛けることができたのが良かったというわけだ。
少し進んで、△63角と打つのが△35歩からの継続手。
この遠見の角に、羽生はこの大一番のすべてを託す。
ねらいはもちろん△36歩だが、シンプルな攻めなので受け止められると切れ筋におちいりそうだし、筋違いの自陣角が「スカタン」になる恐れもある。
米長も、ここは踏ん張りどころと見て、▲45歩の突き捨てから▲56銀左と上がる。
次になにもなければ、3筋と4筋からグイグイ盛り上がって、逆に後手陣を圧迫していこうと。そうすれば、第4局と同じような勝ち方も望める。
だが羽生はこの勝負所で、すばらしい構想力を見せつけるのだ。
△46歩、▲同銀、△44歩が、佐藤康光竜王をして「新手筋発見」と感嘆せしめた組み立てだった。
ここでねらいの△46歩、▲同銀、△36歩は▲45桂と跳ねられてしまう。
そこで歩を一回突き捨てたあと、桂跳ねを防ぐべく同じ筋に歩を打ってバックさせる。
今期の王将戦第1局を自らのYouTubeチャンネルで解説した中村太地七段は、中盤戦の△76歩、▲同銀、△74歩という手順を見て(動画の17分目くらいからです)、
「小さいころ本で読んだんだけど、羽生さんは昔こういう手を指したらしくて、《羽生の歩は下がることができる》って書いてあったのおぼえてますね」
と言っていたが、それがなにを隠そうこの将棋なのだ。
これが王将戦の第1局。中盤戦の戦い。
先手が▲21成銀と桂を補充したところだが、ここから△76歩、▲同銀、△74歩(!)。
▲74桂の痛打を防ぐため歩を「バック」させるのが、羽生の「開発」した手筋。
観戦者が歓声を上げるのを、私のような古参ファンは「あー、あれで出たやつね」とニヤリなわけだが、この将棋はそこからも奮っていて、▲65歩、△73銀、▲64歩(!)。
これがうまい突き捨てで、見ていてまたも歓声。
△同銀に、▲66桂が絶好打になる。
これが▲66の地点の傷を消しながら、やはり次に▲74桂がねらいになるという、見事な切り返し。
むこうが「バックの歩」なら、こちらは「消去の歩」。
手品のような手順で、藤井王将もさすがと感動したものでした。
少し話はそれたが、そんな今にもつながる手筋がここで飛び出し、これが一級品の発想。
これで先手は△36歩を受ける手がなく、桂損は必至なのだ。
ちなみに羽生は2008年の第66期A級順位戦で、木村一基八段相手に同じような形で△63角と打って快勝しているが、その発想のもとも、間違いなくこの名人戦であろう。
新A級の木村一基を一撃で粉砕した妙角。
後手は△86歩の交換から、△35歩、▲同歩、△36歩や、いきなり△35歩、▲同歩、△27銀(!)の強襲でまいる。
この銀打を▲同飛とは取れず、▲49玉など逃げても、△18銀不成(!)の追撃で飛車をいじめられて勝てない。
△44歩の妙手に米長も▲47金と上がり、△36歩に▲45桂というタダ捨ての勝負手をひねり出し、△同歩、▲同銀直とくり出していくが、△66銀と自然に進軍させて駒得の後手が優勢。
追いつめられながらも、土壇場で冴えを見せた羽生がリードを奪い、歓声を受けながらビクトリーロードを走っていく。
米長も懸命にねばるが、後手に乱れはなくゴールに突き進んでいくのは、さすがの落ち着きぶりだ。
……と見えるのは、端の気楽な立場から見える景色で、対局者はそうではなかった。
(続く)