「変な人は論理的である」
というと、たいていの人は
「えー、そんなことないよ。変な人は考え方が論理的じゃないから変なんでしょ」
そう返してくるものだが、これがそうではない。
私はわりと周囲に「変わっている」と言われる人が多い。
マジメすぎて堅物と評される人や、芸術家体質の人までさまざまだが、彼ら彼女らにはひとつ大きな共通点がある。
それは、周囲から見て「変だ」と思われている行動原理には、どれも「理由」が存在する。
そこで、一回偏見を取りのぞいて、そこを語ってもらうと、世間が受け入れるかどうかは別にして、理屈としては、
「なるほど、そういうことか」
腑に落ちることも多いからだ。
そんなことを考えるようになったのは、岩明均先生の傑作マンガ『寄生獣』を読んだのがきっかけだった。
主人公ミギーをはじめとするパラサイトはヒトではなく、それゆえか人間的感情や常識感覚が欠如している。
そして、その分徹底してドライで論理的である。
典型なのが、パラサイトがヒトを食べることについて、ミギーと宿主である新一君の議論するシーン。
「バケモンやん。普通やないで!」
パニックになる新一君に、ミギーは
「別におかしくはないやろ。人間かって他の動物を食べるわけやし」
クールに反論。そこから、
「自然界では動物が、他の動物を補食することは普通であり、ならば人間をエサにする生物がいるなら、そいつがそうしても、おかしくはない」
「自分は他の動物を食べるのに、自分が食べられるのはおかしい、というのは筋が通ってない」
この論理展開に新一君は反論できず、
「屁理屈や!」
「やっぱり、おかしいってば!」
逆アップをかますしかなくなってしまう。
感情論や「ダメなものはダメ」という循環論法でしか語れない新一君に対し、ミギーは徹頭徹尾論理的である。
でも、実際にこんなことを言う人がいたら(中二病的なカマシなら別だが)、はっきりいって「変なヤツ」あつかいであろう。
また、ミギーは彼と新一君を敵視し、なんと授業中の学校に攻めこんできた「A」というパラサイトと戦う際にも、
「ここにいる生徒たちを《肉の壁》にして戦おか。まあ20人くらいは死ぬかもしれんけど、「A」が、そこでもたついている間に一撃でしとめるで」
そんな作戦を提案し、新一君に、
「なるほど、そりゃいいアイデアや。ミギーってホンマ天才やな……ってオイ!」
見事なノリツッコミをかまされていた。
ミギーからすれば、
「生物は自己の生命が一番大事であり、そのためなら他者が犠牲になることもあるのは、しょうがない」
「それを嫌がって命を危険にさらすなど、優先順位のつけ方がおかしい」
ということであり、まあ間違ってはいないけど、少なくともそれで「非論理的」な新一君を説得はできないのであった。
かくのごとく、ロジックというのは、つきつめていくと時におかしなことになりがちというか、ハッキリ言って反社会的ですらありえる。
反面、いかにわれわれの持つ「常識」というものが、好き嫌いをはじめとする「感情」といったアバウトなもので出来ているか、よくわかるではないか。
(ドイツ軍編に続く→こちら)