前回(→こちら)の続き。
橋爪大三郎『ふしぎなキリスト教』を読んだ後、東直巳『ライダー定食』を読んだら、その「食い合わせ」が悪くておどろいた。
なにが悪かったのかといえば、この『納豆箸牧山鉄斎』は、「納豆をかき混ぜる」ためだけに買ってこられた安物の箸が主人公。
その過酷な運命(らしい)にほんろうされる彼に、箸仲間たちが同情と友情の涙を流し、不条理な世の中に対して雄々しく立ち向かうという、それはそれは熱い物語なのである。
というともうおわかりだろうが、これはコメディーである。
箸たちの、ほとばしる情熱が熱ければ熱いほど、「けど、お前ら箸やんけ」と笑いが起こる。
そのどこが食い合わせが悪いのかと問うならば、この運命の不条理に嘆く箸たちのディスカッションというのが、完全無欠にキリスト教などの神学論争のパロディになっているからである。
箸たちは、「我々は想像主である人間を愛する」と口をそろえる。
「ではなぜ、人間は我々に納豆かき混ぜ専用箸という試練をあたえるのか」
天に向かって問うが、人間は答えを与えてくれない。
そらそうだ、箸だもん。
そこから箸たちは、
「この試練は、人間が我々を試しておられるのだ」
「それでも人間を愛さなければならないのか」
「なぜ沈黙なされるのです、人間よ」
と悩みに悩むのだが、これは「箸」を「人」に、「人」を「神」にスライドさせれば、まんま神学者たちの議論になるんですね。
これが、すごいうまい。読んでいると、
「あー、そうか。神はなぜ残酷か、気まぐれか、遠藤周作先生が言うように《沈黙》するのかって、こういうことなんやあ」
大げさでなく蒙が開けた気がする。一神教の不条理さが今ひとつ理解できない人は、この短編を読んでみるといい。
すごくモヤモヤしたところが、クリアになります。
神はなにを思うのか、答えはそうだったんだ、
「だって、箸やもん」。
でもって、これがたまさか、その前に『ふしぎなキリスト教』を読んでいたために、その内容がぐわわわわんとシンクロして共鳴したのである。
おかげで、それ以来真面目なキリスト教の本を読んでも、「神とはなにか」みたいな命題が出てきて、それについてえらい人たちが語れば語るほど、三位一体も精霊の御名もどれもこれも、すべてが「納豆かき混ぜ箸」の言葉に聞こえてしまい、
「神はなぜ我々に、このような不条理をお与えになるのか」
とか言われても、そらウチらが100均で買った箸が折れたりしても、なんとも思わんわけで、迷える子羊のなげきも重厚な神学論もこれすべて、
「だって箸やもん」
の一言で議論が終わってしまうこととなり、昔読んでおもしろかったシェンキェヴィチの『クォ・ヴァディス』も、もう下手するとギャグとして読んでしまうかもとか、頭をかかえたのであった。
橋爪大三郎『ふしぎなキリスト教』を読んだ後、東直巳『ライダー定食』を読んだら、その「食い合わせ」が悪くておどろいた。
なにが悪かったのかといえば、この『納豆箸牧山鉄斎』は、「納豆をかき混ぜる」ためだけに買ってこられた安物の箸が主人公。
その過酷な運命(らしい)にほんろうされる彼に、箸仲間たちが同情と友情の涙を流し、不条理な世の中に対して雄々しく立ち向かうという、それはそれは熱い物語なのである。
というともうおわかりだろうが、これはコメディーである。
箸たちの、ほとばしる情熱が熱ければ熱いほど、「けど、お前ら箸やんけ」と笑いが起こる。
そのどこが食い合わせが悪いのかと問うならば、この運命の不条理に嘆く箸たちのディスカッションというのが、完全無欠にキリスト教などの神学論争のパロディになっているからである。
箸たちは、「我々は想像主である人間を愛する」と口をそろえる。
「ではなぜ、人間は我々に納豆かき混ぜ専用箸という試練をあたえるのか」
天に向かって問うが、人間は答えを与えてくれない。
そらそうだ、箸だもん。
そこから箸たちは、
「この試練は、人間が我々を試しておられるのだ」
「それでも人間を愛さなければならないのか」
「なぜ沈黙なされるのです、人間よ」
と悩みに悩むのだが、これは「箸」を「人」に、「人」を「神」にスライドさせれば、まんま神学者たちの議論になるんですね。
これが、すごいうまい。読んでいると、
「あー、そうか。神はなぜ残酷か、気まぐれか、遠藤周作先生が言うように《沈黙》するのかって、こういうことなんやあ」
大げさでなく蒙が開けた気がする。一神教の不条理さが今ひとつ理解できない人は、この短編を読んでみるといい。
すごくモヤモヤしたところが、クリアになります。
神はなにを思うのか、答えはそうだったんだ、
「だって、箸やもん」。
でもって、これがたまさか、その前に『ふしぎなキリスト教』を読んでいたために、その内容がぐわわわわんとシンクロして共鳴したのである。
おかげで、それ以来真面目なキリスト教の本を読んでも、「神とはなにか」みたいな命題が出てきて、それについてえらい人たちが語れば語るほど、三位一体も精霊の御名もどれもこれも、すべてが「納豆かき混ぜ箸」の言葉に聞こえてしまい、
「神はなぜ我々に、このような不条理をお与えになるのか」
とか言われても、そらウチらが100均で買った箸が折れたりしても、なんとも思わんわけで、迷える子羊のなげきも重厚な神学論もこれすべて、
「だって箸やもん」
の一言で議論が終わってしまうこととなり、昔読んでおもしろかったシェンキェヴィチの『クォ・ヴァディス』も、もう下手するとギャグとして読んでしまうかもとか、頭をかかえたのであった。