遠藤周作『沈黙』のボーイズラブ的解釈 井上章一『妄想かも知れない日本の歴史』

2018年01月19日 | 

 井上章一『妄想かも知れない日本の歴史』を読む。

 歴史とは、一見「事実」を追う学問のように見えて、その実そこには学ぶ側の

 

 「こうあってほしい」

 「こうあるべき」

 

 という妄想というか、

 

 「それはおまえの趣味か、思想や!」

 

 つっこみたくなるような説が、目白押しである。

 それこそ将門首塚や「義経ジンギスカン説」など歴史のトンデモ説が有名だが、この本ではそういったファンタジーから、また著者独自の切り口である「日本に古代はない」という、先鋭的な説なども紹介している、たいそうおもしろい本である。

 その中で

 

 「『沈黙』の読みかた」

 

 という章がある。

 『沈黙』とは自身もカトリックであるである、遠藤周作氏による小説で、マーティンスコセッシ監督の傑作映画『沈黙-サイレンス』の原作。

 江戸時代、禁じられていたキリスト教を広めようと、単身日本に乗りこんでくる、ポルトガル人宣教師ロドリゴを主人公とした物語。

 この小説、とにかく全編を通しての流れとしては、



 「迫害され、ボロボロになりながら、這うように逃げるロドリゴ」



 と、それを捕まえたあと、



 「日本にはキリスト教は広まらない、お前のやっていることは、しょせんは無駄な努力だ」



 そうひたすら、棄教をうながす井上筑前守のやりとりにより成り立っている。

 私も読んだことがあるが、そのときの感想は、



 「あー、これは極上の同性愛的SM小説やなあ」

 

 というと、



 「またまた、オマエはウケを狙って、ひねくれたことばかりいって……」



 怒られそうだが、いや、これ本当なのである。

 ごくごくふつうに、学校の先生が

 

 「本は素直な気持ちで読みなさい」

 

 いうのならって、そう読んだら、自然とそういう感想になったのである。

 だって、井上筑前守ときたら、捕らえたロドリゴを、とにかく言葉と心理的からめ手によって責め苛み、徹底的に無力感を味あわせ、しまいには


 「さあ、あなたの愛するこの人を脚で踏むんだ」


 とか追いこむのである。

 どう見ても、これは「そういうプレイ」である。

 また、ロドリゴも、なんせガチのキリスト教徒なもんだから、



 「踏んだらゆるしてくれるンッスか? まじボクちゃん超ラッキーボーイ!」



 みたいな軽いタイプでなく(当たり前だ)、とにかくどんな責めにも、耐えて耐えて耐え抜くという、理想的なのである。

 同じ状況になったら、私なら5秒踏むけどね。

 そら、井上さんも、気合いも入ろうというもの。

 もう、女王様ならぬ「筑前守サマとお呼び!」てなもんだ。

 この解釈を全面的に支持してくれるのが、井上章一氏である。


 「当局側のさまざまなてくだが、ロドリゴの心をむしばんでいく。それは、ほんのわずかなほころびをあたえることから、はじまった。そして、クライマックスでは、全身をうちのめすかのように、おしよせる」


 ときて、続けて


 「私はそのドラマ作りに、ラベルの『ボレロ』を連想する。ロドリゴへの責めが、クレッシェンドにつぐクレッシェンドで、高まっていく音楽を」。


 さらには、


 「あるいは、加速されていくSMプレイを、感じないでもない。鞭が蝋燭が縄が、ロドリゴをいじめ、さいなみ、もてあそぶ。そして、大団円では、ロドリゴのあじわう被虐の法悦境が、しめされる」


 どうです、井上章一絶好調という感じでしょう。

 私の解釈と、まったく同じである。SMシーンにラベルのボレロ』とくる。耽美的ですなあ。

 これはどう見てもプレイだ。ホントに、読んだらわかります。

 いたずら者の狐狸庵先生のこと、きっと確信犯的に、ニヤニヤしながら書いていたに違いない。

 このように、井上章一先生による学術的根拠を得た、私の『沈黙』読解によると、この小説は

 

 「ボーイズラブ好き女子、必読の監禁調教小説」


 ということであるが、もちろん国語のテスト的には0点の回答。

 私と同じく「自然に」読んで、この本で課題の読書感想文を書こうとしていた生徒がいたら、注意が必要である。


 (次回【→こちら】もこの話題続きます)



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