遠藤周作『沈黙』のボーイズラブ的解釈 井上章一『妄想かも知れない日本の歴史』 その2

2018年01月20日 | 

 本の読み方は自由である。

 前回(→こちら)「遠藤周作の『沈黙』は『薔薇族』に載せるべき名作SM小説」という話をした。

 これについては、

 

 「また、ふざけたことを」

 

 という意見もあるかもしれないが、これは私だけでなく、歴史学にくわしい井上章一氏が『妄想かもしれない日本の歴史』という本の中で、同じ解釈を語っておられるので、たいそう心強い。

 完全に自分の妄言を、学術的尻馬にのせて語っているわけだが、どうしてどうして、井上氏の妄想は私なんぞのそれよりも、さらに上を行くものであった。

 マーティンスコセッシ監督の傑作映画『沈黙-サイレンス』の原作でもある『沈黙』を「SMプレイ」と、はっきり言い切った井上氏。

 それだけでも、マジメな先生や、キリシタンから怒られそうであるが、さらに氏はこの『沈黙』に谷崎潤一郎の影響を見て取る。

 谷崎の『瘋癲老人日記』では、77歳のじいさんが、息子の嫁にほれこんで、いたぶられ、足蹴にされることをよろこんでいる。

 谷崎といえば、



 「オレは変態やけど、実際やるだけでは満足でけんから、小説でもプレイを楽しみまっせ!」



 という、ほとんど竹内義和さんみたいな姿勢で、文学にのぞんでいた大先生。

 思い出すのが、高校生のころ読んだ『痴人の愛』で、あれも16歳の、顔だけかわいい、ゴリゴリの下品JK調教しようとして失敗し、逆に奴隷あつかいされるけど、

 

 「それはそれで、楽しいからOK!」

 レッツ・エンジョイしてしまうという、ナイスな変態小説であった。

 究極なことに谷崎センセ、なんと死んでからも美女に踏みつけられたいと願い、自分の女の足型をきざもうとする。

 そうすれば、あの世へ行ってからも、未来永劫プレイを楽しめるからである。

 なんという阿呆……もとい男らしさか。その夢想は、先生の筆によると、


 「泣キナガラ『痛イ、痛イ』ト叫ビ、『痛イケレド楽シイ、コノ上ナク楽シイ、生キテイタトキヨリモ遥カニ楽シイ』ト叫ビ、『モット踏ンデクレ、モット踏ンデクレ』ト叫ブ」。


 なにかもう、「勝手にやっとれ」という話だが、ようもまあ、ここまで自分をさらけ出せるもんである。

 これが文学なんだから、芸術の世界というのはフトコロが深い。尊敬しますわ、ホンマ。

 井上氏は、この「美女に踏まれたい願望」が、『沈黙』の踏み絵のシーンにスライドされているという。

 つまり、



 「嫌がる相手に、無理矢理自分を踏ませる」



 という、プレイとしてだ。

 実際、ためらうロドリゴに、イエスはいう


 「踏むがいい、お前に踏まれるために、私は存在する」。


 ということはつまり、宣教師ロドリゴは、井上筑前守と石板に掘られたイエス・キリスト、両方から責められた、ということになるわけだ。

 上から「踏め」「嫌だ」。

 下からも「踏みなさい」「嫌です」。

 『沈黙』は単に、主人奴隷の対面だけのものではなく、そこにキリストを介在した、三角関係なSMだったのである。

 嗚呼、なんて深いんだ。

 まあ、そんなこと考えてるのは、私と井上先生だけかもしれないけど。

 では、この小説を書いた遠藤周作は、谷崎大先生のような変態だったのかといえば、井上氏は


 「遠藤にもその気があったと見る。すくなくとも、その性癖を理解し、好奇心をもってながめていたと、そう考えたい」。


 とおっしゃっている。「そう考えたい」というところに、

 

 「だって、そっちのほうが、おもろいやん」



 という、若干無責任な、おもしろ主義が感じられて、そこがまた井上氏のお茶目なところである。

 私が孤狸庵先生の本をいくつか読んだ感じでは、けっこうキツめのイタズラとか好きだし、どちらかといえばドSの方(つまり筑前守側目線)ではないかと、にらんでいるがどうか。

 
 (さらに【→こちら】に続きます) 




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