菊池のぶひろの議会だより

日本共産党 桜川市議会議員 菊池のぶひろの活動報告です

松本春野さんが語る「いわさきちひろ」

2024年08月16日 06時59分45秒 | 地方政治
 今日のしんぶん赤旗は、いわさきちひろ没後50年として、松本春野(ちひろの孫)さんが語る「いわさきちひろ」の特集を組んでいます。紹介します。
 
 主体的に生き直した戦後

 こちらを真っすぐ見つめる瞳、思わず触れたくなるような頬、手を差し出せばぎゅっと握り返してくれそうな小さな手。「いわさきちひろ」と聞けば、そんな優しい色彩をまとう子どもの絵をまぶたに思い浮かべる人が多いのではないか。

強さたたえた子どもたちの表情

 私は、ちひろの孫娘である。そして絵本画家という祖母と同じ職業を生きている。そんな縁で、テレビ番組などでは、たびたび祖母の絵の模写を求められ技法を説明する機会を頂いてきた。ちひろは確かにデッサン力に加え、滲みを自在に操る水彩画の名手だった。ちひろの線を模写する中で、私は次第に、どこで力を抜き、どこで張り詰めたたように息を止めて描いたのか、想像できるようになっていた。

 私がちひろの子どもの絵を描くとき、筆が振るえるほど緊張する箇所がある。それは瞳の上まぶたのラインだ。かわいく、あたたかいはずのちひろの描いた子どもの表情は、怖いほどに抑制されたものが多い。子どもを描くとき、私ならつい笑顔の子どもを描いてしまう。目尻を下げ、口角を上げた顔を。それは私が知っている幸せの表情だから。けれどもちひろの作品は違った。見るものに媚びない、強さをたたえた表情だけをみれば、まるで大人のようである。では、一体何がちひろの子どもは「子ども」に見せているのか。

夢は胸に収め 自分を封じて

 ちひろの描く凛とした子どもの頭部を支える首や肩、四肢などは、驚くほど華奢なのだ。大人が守ってあげないと壊れてしまいそうな、それは子どもらしいものだった。そんな大人と子どもが共存するような肉体を包むちひろの水彩は、涙がでるほどあたたかい。ちひろの妹が語った言葉を思い浮かべる。「いわさきちひろは、鉄の芯棒を真綿でくるんだような人だった」。まさに、この言葉通りの絵であった。

 ちひろは、明治生まれで、規範意識の高い女学校教師の母と陸軍の建築技師の父の下に生まれた。三姉妹の長女で、絵が好きな利発な娘だった。女学校の時に絵を習い始め、絵描きの夢を語ったこともあったが、両親は反対し、卒業後は結婚を望んだ。夢は収め、ちひろは両親が気に入った相手と最初の結婚をする。しかし、自分を押し殺す結婚生活は、不幸な結末を迎える。相手の自死によって幕を閉じたのだ。ちひろは幸せでありたかったはずだ。しかし、自分の気持ちや考えを封じ、大人の社会の顔色をうかがう生き方は、ちひろだけでなく、周りをもで幸せにしなかった。

 自分の幸せは自分で決める

 その後、しばらくして日本は敗戦を迎える。ちひろは、戦争に対しても、国の言うことに疑問を持たず、多くの日本人がそうであったように、流れに身を任せ終戦を迎えていた。

 ちひろは戦後、主体的に生き直していく。かつての夢だった画家の道に再挑戦し、7歳半年したの若きコミュニスト松本善明と再婚した。絵筆で家計を支え、夫と共に私の父を産み育てた。誰のためでもなく、自分の幸せは自分で決める生き方だった。

 ちひろは彼女の人生を通して、その手に取り戻していった尊厳を、作品の中に描き込んでいったように思う。ちひろの子もたちは、今も私たちに語りかけるようだ。

注)
 ちひろの夫・松本善明氏は、東大出の若き弁護士でした。1967年に、共産党の4議席獲得のとき、東京で当選をしました。69年選挙で、不破哲三氏が当選しました。
 キクチは、下館労音(茨城県党副委員長・田谷さんが事務局員として働いていた頃)で、上条恒彦氏がうたった歌に、「ちひろさんと善明さんの結婚式で歌った」ものがありました。一番インパクトがあったのは、「さとうきび畑」でしたが・・・・。

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