今日のしんぶん赤旗の「潮流」欄には、「北海道大学の入試の問題」に不破哲三氏が出てきた話が載っています。紹介します。
潮流
「20歳の不破青年が『もう小説は書く気はなくなって』いた背景には、17歳の誕生日の直前にある政党に入党して、政治活動の従事していたことも関係していたと思われる。不破哲三は後年この政党の指導者になっている。この政党の名称を答えなさい」
▼今年の北海道大学の入試にこんな問題がありました。科目は日本史で不破さんの著書『私の戦後60年』を史料に使って出題されました。大学の入試の答えに日本共産党が求められること自体、その存在が日本政治の中で欠かせないことを示しています。
▼ロングインタビューをまとめた先の本は、もう一つの戦後政治史とうたわれました。戦争への反省も総括もされないまま、頬被り精神、曖昧体質で済ませてきた自民党政治。それと対峙し現実の矛盾を告発し社会を変えてきた政党の役割と値打ちを自身の回想を交えて
▼不破さんは大学で学ぶ学生たちにこんなアドバイスを。過去の侵略戦争の”名誉回復”をはかる。もっぱら「アメリカの窓」から世界を見る。ルールなき資本主義の国。この三つの異常さを日本社会の日本社会の全体像をつかむ参考にしてほしい
▼ちなみに入試問題とともに北大のホームページにある講評には、冒頭の問いに正解できない答案が存外に多いのに驚いたと。普段から新聞やニュースに接するよう受験生に呼びかけています
▼昨今の共産主義と自由についての提起もそうですが、現状の打開とともに未来社会を展望する党の魅力をたくさん若者に広げたい。
(2024・8・14)
注)
不破哲三氏が衆院議員に初当選したのは、1969年12月の選挙でした。私は、学校が冬休みになっていたので、泊りがけで、選挙の応援に行きました。当時は、公明党との競争が激烈でした。不破氏の選挙区は、東京の下町は、創価学会の支持者が多く、1人で共産党のチラシを配布していると、あっという間に取り囲まれている状態に、何回も遭遇しました。
それだけに、「不破当選」をニュースで知った時の感激は、55年以上たっても忘れられません。
また、私が入党したころは、「マルクス・レーニン主義」をスローガンに掲げていましたが、それを「科学的社会主義」の変えたのも、不破哲三氏の力が大きく働いたと考えています。