さんたろう日記

95歳、会津坂下町に住む「山太郎」さんたろうです。コンデジで楽しみながら残りの日々静かに生きようと思っています。

226事件に94歳爺いの思うこと。(1)

2021-05-30 | 日記

私が小学校3年から4年の頃、幼かった私の耳にもたび重なる東北地方の冷害による凶作で農村では娘身売りなどが行われるなどの悲惨な状況が聞こえてきていました。

昭和11年(1935)春の頃ひそひそと話す大人達の声に私は陸軍の若い将校達が軍隊を率いて反乱((クーデター)を起こして鎮圧され銃殺されたことを知り怖いなーと思いました。

どうやら青年将校たちの反乱は悲惨な東北地方の農民達の現状を改善する為だったこと、そしてその話の中に高松の宮(昭和天皇の弟)のことなども大人達の声などから私のような子供にも聞こえてきたりしていました。

私は母の購読している雑誌(名前は不明)に青年将校たちの写真が掲載されて青年将校達をたたえる記事が報道されているのを読みました。当時の雑誌の記事の漢字にはすべてルビがふってありましたので、小学校4年の子供の私でもその記事を充分に読むことができたのです。

私はその記事を読み、凜々しい姿の青年将校たちの写真に感動してしまいました。当時のわたしには銃殺された青年将校は国民の為にことを起こした英雄に見えていたのです。

そして次の昭和12年(1937)には中国の盧溝橋近辺での一発の銃声で起きた日本の中国駐屯軍と中国の軍隊との戦闘での盧溝橋事件をきっかけで日本軍のある連隊長が上級機関の師団長の指示も受けずに中国軍を攻撃し、それにつれて日本軍の上海での戦争や、当時の中国の首都南京攻略の戦争に発展していったのです。

当時の私たちの周りの雰囲気は暴虐な支那(当時は中国をそうよんでいました)軍など優秀な日本軍の攻撃ですぐに敗れて戦争は終わると思っていました。

連戦連勝する日本軍に感動して小学校での児童の私たちは万歳万歳と叫んだ旗行列で集落を廻り、集落の人達はそれに手を振って応えてこれました。

ところが実際は中国は簡単に破れるどころか昭和20年8月に日本軍が戦争に破れ降伏するまで8年間も中国での日本軍のの戦争は続いたのです

昭和11年頃までの日本陸軍は皇道派と統制派の派閥があって抗争していました。226事件のクーデーターは皇道派の青年将校達の暴挙でした。その青年将校たちのクーデターが鎮圧され処刑銃殺されたことによってで皇道派は衰え日本陸軍は統制派にまとまり強力に政治を支配するようになりました。日本の政党政治は軍隊を恐れ壊滅してしまいました。いわゆる狂気の軍国日本になってしまたのです。

今日はここまでにしておきます。明日は226事件についての私の思いをまとめて見たいと思っています。


遠い日の思い懐かしむ

2021-05-27 | 日記

「石油ランプで暮らしていた集落に電気がきた嬉しい! 」

そんな経験をした人など今はもう居ないでしょうね。でも私は小学校2年7歳の時それを経験しているんです。昭和7年(1934)の年でした。

石油ランプで暮らしていた集落のそれぞれの家ではランプの石油を倹約する為に早々とランプを消して 眠ります。集落の夜は真っ暗闇なんですよ。「草木も眠るうしみつどき」という言葉がありました。

「うしみつどき」といのは古い計時法で現在の午前2時から2時30分の頃の時刻にあたります。つまり「うしみつどき」にはすべての生き物は眠ってしまって、「魑魅魍魎(ちみもうりょう)がさまようているということです。

魑魅魍魎というのは化けものや幽霊なぞのことです。つまりその時間帯ではお墓には燐の青い火が静かに燃え、この世に恨みを残す幽霊が姿を見せ、きつねやタヌキが人を馬鹿そうとうろつくということなんです。ランプで暮らしていた子供の私などその言葉を信じて夜を恐れていました。

そんな集落に暮らしていた小学校の2年の私は集落に電気が来るということを聞いて嬉しくてたまりませんでした。

小立岩の隣の集落は大原、その隣は内川の集落です。その内川の集落に水力発電所が出来きて大原や小立岩や大桃の集落に電気がくるというのです。

送電の工事はどんどん進んできました。杉の木の柱の電柱が立てられ、上部の横木の白い碍子に二本の電線が張られていくんです。それぞれの家にも安全器を通して配線され電灯がつけられるのです。その頃の工事はおおらかでした。興味いっぱいの子供たちが群れて工事の様子を見ていてもじゃもの扱いはしませんでした。電柱に登って電線を張る人。電線のつなぎ目に融かしたはんだ(鉛の合金)をつける人、私たち子供はすべての工事に興味しんしんで見ていました。

わたしなど家に帰って母の裁縫箱から木綿糸をいっぱいとりだし家の後ろの木の枝につないですっかり電気工事人になったつもりでうっとりしていると、母に見つかりこっぴどく叱られたりしました。

さて送電工事が完成して今日の夕方には電気が来ると言う日、集落の人はみんな道に出て隣の大原の集落を見つめていました。電気は電線を通って水が流れるようにやって来るんだから大原まで流れてくれば間もなく自分の集落にも電気が流れてくるはずだと思っていたのです。

大原に電気がついたのを見た小立岩の人達はまもなく自分の家にも電気が流れてくるだろうと自分の家を見ました。するともう電灯が明るくついていました。人々は争って家に帰りました。

「電灯の灯りはまるで昼間のようだ。」そのとき子供だった私の感動です。

その電球のタングステン線はコイルに巻かれているのはなくって電球の中にW字状になって光っていました。何ワットではなくって何燭光といっていました。

電灯のついた集落は一変しました。ランプに変わった電灯はそれぞれの家の夜を真昼のように明るくしました。街灯もついて夜の闇の道路も明るくなりました。

そして集落をまとめていらっしゃった「しろへい」さんの家にラッパのようなスピーカーのついたラジオが入りました。

でも当時の放送局ははたしか上野の愛宕山の1局だけだったように思います。昼間は届く電波が弱くてほとんど聞こえませんけど夜には電波が強くなりラジオがよく聞こえるよになり、「しろへい」さんの家に集落の人がみんながあつまりラジオを愉しみました。

ランプ生活の集落に電気がきたことは革命的なできごとでした。

 

 電気は人の心を目覚めさせたのです

発電所も大きくなりラジオなどの機器も改良され、それぞれの家にみなラジオが入り「しろへい」さんの家に固定電話が入り、木材から板をつくるのに「大鋸(おうが)」と言われる幅が50cmもある大きな鋸で人が材木をひいていたのが「電動の機械の製材所」で製材されるようになり、籾米を土するす(どするす)でひいて玄米にし臼でつい白米にしていたのが電動の精米機で白米にするようになるまでそう時間はかかりませんでした。

 ランプ生活の集落に電気が入ったのはほんとほんと革命的なできごとでした。電気が入ったことで大変な変動が集落の人々に起きたのです。「丑三つ時」もすっかり明るくなって魑魅魍魎も姿を現さなくなりました。人々の考えや労働の姿がすっかり変わってしまったのです。

私の小学校2年の時の思い出です。

(土するす=土で作ったすりうす。籾を手回しでひいて玄米にする。)


懐かしい冷害凶作の時の思い出

2021-05-26 | 日記

私が小学校2年の頃(昭和9年1934)の冬はすごい豪雪でした。5月になっても1m近くの積雪が残っていて田んぼに苗床がつくれないのでした。集落の人たちは相談して皆鋸とスコップを持って集まり鋸で積雪を切ってスコップでのけてようやっと田面をだして5月末には苗床を作ることが出来ました。大人の人たちはみんな心配で心配で必死の作業だったと思います。

でも私たち小学校2年の頃の子どもたちにはその作業がなんかお祭りみたいに見えて愉しんで見ていた記憶があるんです。その年は気温が上がらず米の収穫はほとんど皆無でひどい凶作でした。

当時の東北地方の農村では○○さまと言われる大地主が小作人を抱えて稲作の農業をやっていました。小作人は凶作であっても定められた小作料を納めなければ小作地を取り上げられてしまいます。やむを得ず一家が生きるために娘を女衒(ぜげん人買い)に渡して銭貨を得たと聞いていました。

10歳を過ぎたばかりの娘は親への孝行のためと泣く泣く遊郭に身を落としていったのです。あの有名な「おしん」の始めの頃のシーンに「おしん」の母が綺麗な着物を着て「おしん」に逢う場面がありましたね。「おしん」の母が一時身を落としていたんですよね。

でも、私の古里の小立岩の集落は農業が主の生活ではなくて山毛欅の林を切って行う「木のしゃくし」作りなどの仕事や、銃猟などによるまたぎ(熊や野ウサギやむささびなどの狩り)が主の生活でしたから当然地主と小作人などの関係はありませんでした。みんな平等で集落の人達に貧富の差などはほとんどなかったように思います。凶作で困るのはみんな同じに困って助けあって耐え抜いたのです

その年の凶作を集落の人達がどのようにして耐え抜いたかは子供の私にはよくは分かりません。でも級友の持ってくるお昼の弁当の中身が変わったのです。弁当の隅にカボチャと粟(あわ)などの雑穀の雑炊が少し入っているだけの貧しい弁当になったのです。

空腹の苦しみはつらかったんですけど、級友のみんなが同じような弁当でしたからなんだかそれがあたりまえのような感じで悲惨感はあまりなかったように思います。

 その頃父は普通の大きさの半分の大きさの原稿用紙(200字つめ)に必死に何かを書いていました。私が少し長じて残されて原稿用紙を見るとある新聞社名の入った原稿用紙でした。その新聞社に依頼されて小学校の子供たちの悲惨な状況を書いていたんではなかろうかと思っています。

その年の秋の深まった 頃私たちの小学校に大きな福音が訪れたのです。白米(ただしそれは台風の被害にあって濁った水をかぶり商品にならなくなった白米)と鰯のほうどしがいっぱい届いたのです。

こどもだった私にはそのいきさつは全く分かりません。でも嬉しかったのは集落のお母さんたちがそれをつかってご飯に炊き子供たちに空の弁当箱を持ってこさせて白米のご飯と鰯をいれて子供に渡して食べさせてくれたのです。

カボチャと雑穀の雑炊が少し入った弁当をたべていた私たち子供です。こども達にとってはすごくおいしい弁当でした。その給食がどこまで続いたのかははっきりとは思い出せませんけどしばらくはすごい幸せの時を過ごすことが出来たのです。

私の家のアルバムには父がフロックコートで正装した写真があるんです。

当時僅か職員3名、児童数60名ほどの小さな小学校の名ばかりの若い30歳代の校長の父がこんないかめしい正装などしているのは不思議に思っていました。

父は若くして 亡くなっています。子供だっただ私にははっきりした記憶ではないんですけども、なんとなくかすかに「遠いところからではあるが陛下のお姿を拝することが出来る集まりに招かれた時の写真である」と話すのを聞いたような記憶があるんです

今の私は父が真剣に書いていた新聞社名の入った原稿用と、凶作の時の子供の食べた白米弁当の給食と、フロックコートで正装した父の写真とはなんかかかわりあいがあるんじゃなかろうかと思ったりするんです。阿呆な私のまぼろしの夢かもしれませんですけどもね。

 

ほんとほんとあの白米とほうどしの鰯は本当においしかったんですよ。懐かしい思い出です。


小立岩での思い出(トクオ君)

2021-05-24 | 日記

小立岩と言うのは奥深い山あいの、安越又沢(あごしまたさわ)と檜枝岐川(ひのえまたかわ)が合流する場所の狭い居平に寺を含めて10軒ほどの民家が寄り添っている小さな集落でした。そこに茅葺き屋根の2教室に教員住宅のついた民家同然の小さな小学校校舎がありました。その小学校に教員として父が着任し私たち家族が住むことになったのです。


私はその小立岩の集落に小学校の1年から5年までの5年間を過ごしました。狭い居平の世界でしたけどそれは子供の私にとっては私の全世界でした。楽しいこと、寂しいこと、悲しいことなどの思い出がいっぱいある私の大事な古里でした 

集落の子供仲間の小学校1年生は「とくお君」と私の二人でした。「とくお君」は私を友達としてではなくて先生の息子の新入りの世話を親切にしてやるという態度でした。だから私に大きな影響を与えてくれました


 (以上昨日の投稿から)

 

(トクオ君)は体も心も大きくな寡黙の男の子でした。ある日私を連れて自分の家の蔵の入り口の自分の場所につれてゆきました。そこにはいろんな緑の液の入ったガラス瓶がずらっと並んでいました。(トクオ君)はこれは「俺の作った毒もみだ!」いうんです。その瓶の液を魚のいる流れのよどみにそそげば魚は苦しくなって浮かんでくる。それをすくうんだというんです。いろんな植物をもんで出る液なんだそうです。私はその神秘的な濃い緑の液体をみて感動してしまい(トクオ君)への驚きと信頼と尊敬の念いっぱいになりました。でも5年間一緒してその液を使って毒もみをしたのを見たことはありませんでした。

またある日のこと、(トクオ君)は私をつれて安越又沢(あごしまたさわ)の奥地につれて行きました。4kmほど行くと大きな流れは小さな綺麗な流れになって流れの中の石を二つ三つ飛んで向こうの岸に行ける山毛欅の森につきました。そこには茅で屋根も壁も作った小屋が3軒ほどありました。そこは(トクオ君)のお父さんとお母さんが山毛欅の木をつかって仕事をする場所でした。山毛欅の木で木製のしゃくしを作っていたんです。

中に入るとしゃくしをつくるそれぞれの工程に必要な見事な刃物が並んでいて原料や半製品や完成品が綺麗に並んでいました。その完成品の木しゃくしをなぜか「みやじま」といっていました。

木しゃくしの製品を安芸の宮島の土産品として送っていたのかな?などと思いました

(トクオ君)のお父さんとお母さんは仕事の手を休めて私を大歓迎してくださいました。そしてウル米で作った綺麗で美味しい真っ白なもちを焼いて食べさしてくれました

(トクオ君)と私は何度かその深い山毛欅林の中の作業小屋を訪れていました。.

 

(トクオ君)は小学校3年の頃でしょうか山の中腹にある斜面にある開墾と言われる畑地に私を連れて行ってくれました。その開墾の畑上部の林のなかに(トクオ君)だけが知っているこくわ(さるなし)がちょうど熟する時でした。こくわと言うのは蔓状の植物で小さなその実はキュウイとそっくりの香りと味のする美味しいものでした。

こくわの蔓は大きな木の枝先にひろがって美味しい実をいっぱいつけていました。その木に登るには隣の細い木に登って蔓のある大きな木の高いところに移らなければなりませんでした。

(トクオ君)は「さんたろう来い」といって細い木を登って大きな木に移ってゆきました。私もそのあとについて細い木から大きな木に移って太い木の枝の股に腰をおろしました。でも怖くて枝先の蔓になっているこくわの実のところには行けませんでした。(トクオ君)が採ってきてくれるこくわを美味しく食べていたのです。

さて帰るだんになってあらためて下を見るとそこはすごく高い所の木の枝でした。私は恐怖のあまり泣き声をあげて震えていました。今考えると一番困ったのは(トクオ君)だと思います。

(トクオ君)は先に細い木に移って私をなだめながら指示をだすのです。左の手でその枝をつかめ!、右脚をそのい枝にのせろ!などとしっかり私を支え指示を出しながら私を無事に高い木から下ろしてくれたのです。

このことは私には恥ずかしいことですから誰にもいったことはありません。(トクオ君)にしてみれば大事な先生の息子をそんな 危険なところに連れ出したことが申し分けなく思ってたれにも言いませんでいた。

94歳になった爺いの投稿が秘密の初めての開陳です。恥ずかし恥ずかしです。

(トクオ君)といいうのは私にとってそういう大事な大事な友人だったんですよ。私が50歳の頃車で古里小立岩を訪れた時は(トクオ君)は遠い日に上京して成功しているとのことで逢うことは出来ませんでした。でも今でもすごく逢いたい懐かしい友人なんですよ。 

今度は少し公的な出来事の感想を書いて見ようかと思っているんです