5歳のとき伊北村只見に移り住んで一年が過ぎました。その年の4月父は檜枝岐村の隣の大川村小立岩の小学校に転勤になりました。奥会津の4月はまだどっしりと雪が積もっていて道路があきません。除雪車などない昭和の初期の昔です。父は3月末に先に小立岩に赴任し、家族は雪が消えてトラックが通る5月に小立岩に移住することになったのです。
当時の小学校の入学式は4月4日前後だったと記憶しています。父の転勤によって只見に残った私は一ヶ月ほど只見小学校に入学し5月になって大川小学校に転校することになりました。
当時は幼稚園などありません、6歳になった子供たちは初めて小学校という集団教育の場に入学するのです。子供たちはもちろん保護者も先生方も大変なことでした。
初めて入学する子供たちは国語と修身(道徳)の教科書一冊と石盤(薄い石のスレートで出来たA4サイズくらいの小さな黒板)と 石筆(石盤に文字をかく白墨を固くしたようなもの)を風呂敷に包んで学校に通いました。ノートなどは学校に少しなれた2学期から使うのでした。
履き物といえば下駄・草履・ゴム製の短靴などでした。冬は藁でつくられた長靴です。
はっきりした記憶はないのですが30人くらいのクラスで女の優しいけどもベテランの女の先生が担任でした。こども達は男女とも木綿の着物にゆっこぎ(雪こぎ)というもんぺ姿でした。
でもそこにたった一人洋服にすカートの綺麗な女の子が入ってきたんですよ。たぶん県事務所の出張署などのお偉いさんのお嬢様なんでしょうね。女の子達ってすごいです、その女の子は時をおかずクラスの女の子達に同化してしまって仲良しになってしまったのです。
でも洟垂れ小僧の男の子たちは違います。珍しさ・あこがれ・ときめきの心で遠くから見つめていたのです。決して意地悪をすることなどではなくて、あこがれ・ときめきの心で遠くから見つめていたんでんす。もちろん私もその一人なんです。
先生はみんなの心が溶け合うのを願って講堂にみんなを連れてゆき「つなぎ鬼」というゲームをさせました。じゃんけんで一人の鬼を決め、鬼になったものは他の者を追ってタッチします。タッチされた者はすぐに鬼になってもとの鬼と手をつなぎ他の者を追うんです。そのようにして手をつないだ鬼の帯は長くなってやがて全員が鬼になってしまってゲームは終わります。ある日のつなぎ鬼の遊びでほんとに偶然にその女の子に鬼になたった私はタッチしてしまいました。女の子は私のことなどになんの意識もなく私の手をしっかり握って他の者を追いました。私はゲームが終わるまでその女の子の手を離すことはありませんでした。その間だ私は幸せいっぱい夢見心地でした。それは6歳になったばの私の初めての嬉しい経験でした。
そんなことがあって3日後の5月ポンコツのダットサントラックに荷物を積んで父の任地の小立岩に家族で出発したのでした。只見村1年の大事な出来事でした。いまでも懐かしい思い出なんですよ。