さんたろう日記

95歳、会津坂下町に住む「山太郎」さんたろうです。コンデジで楽しみながら残りの日々静かに生きようと思っています。

 5歳の頃の伊北村(いほうむら)只見の思い出の記(2)

2021-05-21 | 日記

 5歳のとき伊北村只見に移り住んで一年が過ぎました。その年の4月父は檜枝岐村の隣の大川村小立岩の小学校に転勤になりました。奥会津の4月はまだどっしりと雪が積もっていて道路があきません。除雪車などない昭和の初期の昔です。父は3月末に先に小立岩に赴任し、家族は雪が消えてトラックが通る5月に小立岩に移住することになったのです。

当時の小学校の入学式は4月4日前後だったと記憶しています。父の転勤によって只見に残った私は一ヶ月ほど只見小学校に入学し5月になって大川小学校に転校することになりました。

当時は幼稚園などありません、6歳になった子供たちは初めて小学校という集団教育の場に入学するのです。子供たちはもちろん保護者も先生方も大変なことでした。

初めて入学する子供たちは国語と修身(道徳)の教科書一冊と石盤(薄い石のスレートで出来たA4サイズくらいの小さな黒板)と 石筆(石盤に文字をかく白墨を固くしたようなもの)を風呂敷に包んで学校に通いました。ノートなどは学校に少しなれた2学期から使うのでした。

履き物といえば下駄・草履・ゴム製の短靴などでした。冬は藁でつくられた長靴です。

はっきりした記憶はないのですが30人くらいのクラスで女の優しいけどもベテランの女の先生が担任でした。こども達は男女とも木綿の着物にゆっこぎ(雪こぎ)というもんぺ姿でした。

でもそこにたった一人洋服にすカートの綺麗な女の子が入ってきたんですよ。たぶん県事務所の出張署などのお偉いさんのお嬢様なんでしょうね。女の子達ってすごいです、その女の子は時をおかずクラスの女の子達に同化してしまって仲良しになってしまったのです。

でも洟垂れ小僧の男の子たちは違います。珍しさ・あこがれ・ときめきの心で遠くから見つめていたのです。決して意地悪をすることなどではなくて、あこがれ・ときめきの心で遠くから見つめていたんでんす。もちろん私もその一人なんです。

先生はみんなの心が溶け合うのを願って講堂にみんなを連れてゆき「つなぎ鬼」というゲームをさせました。じゃんけんで一人の鬼を決め、鬼になったものは他の者を追ってタッチします。タッチされた者はすぐに鬼になってもとの鬼と手をつなぎ他の者を追うんです。そのようにして手をつないだ鬼の帯は長くなってやがて全員が鬼になってしまってゲームは終わります。ある日のつなぎ鬼の遊びでほんとに偶然にその女の子に鬼になたった私はタッチしてしまいました。女の子は私のことなどになんの意識もなく私の手をしっかり握って他の者を追いました。私はゲームが終わるまでその女の子の手を離すことはありませんでした。その間だ私は幸せいっぱい夢見心地でした。それは6歳になったばの私の初めての嬉しい経験でした。

そんなことがあって3日後の5月ポンコツのダットサントラックに荷物を積んで父の任地の小立岩に家族で出発したのでした。只見村1年の大事な出来事でした。いまでも懐かしい思い出なんですよ。

 


5歳の頃の伊北村(いほうむら)只見の思い出の記(1)

2021-05-21 | 日記

昭和7年(1932)5歳になった私は親しんでいた隣の幼な友だちの女の子とも別れて父の勤務先の伊北村只見(いほうむらただみ)に移り住みました。住居は新築したばかりの空き屋を借りていました。庭には屋根のついた井戸がありました。初めて見る井戸です。麻縄につけられた桶のつるべを滑車で曳いて井戸の水を汲み上げていたのです。深い井戸の底を見ると水面がかすかに光って見えてなぜか神秘的でした。幼い私はいつも井戸の底を見るのが好きでした。

お隣の家は鍛冶屋さんでした、ふいごで炎を上げる炭火で真っ赤に焼いた鉄を叩いて鉈や鎌などの刃物や鍬などを作ったり修理したりしていました。初めて見る鍛冶の仕事です。珍しくて興味しんしん暇ががあればいつも眺めていました。

娘さんが3人ほどいたんですけどちよっと清潔感に欠けて見え性格も少し粗々しくて友達にはなれませんでした。その代わり「てつお」という同い歳の男の友達が出来ました。彼は5月生まれ私は翌年の1月生まれ、幼い5歳の頃は同い歳といっても生まれ月が8ヶ月も違うと熟年成長の差は大きいんです。当然リーダーは「てつお」でした。

サワガニのことや、山の美味しいアケビや野葡萄のことなどみな「てつお」が教えてくれました。

こんなことがありました。私の家の裏の森の道を行くと滔々と流れる只見川がありました。そして川の向こうは豊かな林の茂る山地でした。村の人達は川のこちら側と向こうの山地側には鉄索(てっさく)というものを作ってそれを利用して人々は川向かいの山地と往来していました。

鉄索というのは川のこちら側と向こうの山地側に櫓(やぐら)を組みそこに鉄のワイヤーを取り付けて、ワイヤーに滑車をつけた大きな籠(かご)状のものを取り付けワイヤーをたぐって人や荷物を載せた籠を移動させて川を越えて移動していたのです。移動に使うロープもついていたと思います。でも危険ですので子供は触れないことが不文律になっていました。

あるとき「てつお」は私を連れて二人でこちら側の櫓につながれていた大きな籠(かご)に乗って遊んでいました。すると籠の止めがはづれたんでしょうね二人をのせた籠がするすると向こう岸に向かって移動し鉄索のちょうど真ん中へんで止まってしまったのです。

真下は激しく流れる只見川の流れです怖いですい。私は怖くて激しく泣きました。しかし(てつお)は泣きません。すっくと立ち上がってロープを引いて籠を移動させようとするのです。でも5歳の子供です、ロープにうまく手がとどかないのです。でも(てつお)は雄々しく揺れる籠の上に立ってロープをつかもうと努力するのです。その姿に感動して私も泣くのを止めました。

しばらくすると大人の声で「動くな座っていろ」と怒鳴る声が聞こえてきました。なんと(てつお)の父親の声でした。そしてロープをたぐって籠を櫓に引き寄せてくれました。つくと同時に(てつお)は激しく父に頭を打たれました。でも(てつお)は涙もみせず声も上げませんでした。父親は私にむかって優しく「ごめんな、無事でよっかたね」と言いました。私は雄々しい(てつお君)に感動してしまいました。

やがって50歳近くになって古里只見をおとづれて(てつお君)にあいました。(てつお君)は村の将来を託される有志の村会議員になっていました。

「栴檀は双葉より芳しい」といいますよね。
大器はやっぱり幼いころから立派なんですよね!、私は今でも(てつおさん)への深い尊敬の念を持ち続けているんですよ。

伊北村只見の懐かしい思い出がもうひとつあるんです。それは明日書くことに致します。