100mもあるんでしょうか野老沢(ところざわ)大橋は国道252号線沼田街道の陸橋の下を通る道の先にあるんです。私はいつもこの陸橋を車で通りながらちらりと見えるこの野老沢大橋を渡って見たいと思っていたんです。
橋の左側に見える只見川の柳津発電所です。橋は高所恐怖症の私には恐ろしくて目が回るほどの川面からの高さでした。ようやっとそろそろ橋の端に近寄って写真を撮りました。
橋の右側は只見川の下流柳津の町の遠望です。遠く赤い柳津大橋が二つ見えていました。
そして只見川の左の山の斜面には拓かれた棚田が見えていました。この棚田は観光でも休耕田でもなくて稔りの秋には黄金色に輝くのです。いま現在集落の人に耕作されている生きた棚田です。耕地の少ない山あいとはいいながら私には珍しい夢の棚田なのです。
野老沢の棚田は集落の東の外れにありました。緩やかな斜面の上の方まで棚田が拓かれていました。
棚田には二筋舗装された250mほどの農道が斜面の上の方まで延びて両側に基盤整備された水田が並んでいました。
棚田の中腹からの眺めです
棚田は斜面の上の方まで余さず拓かれていました
棚田の中腹からの眺めです。このような急な斜面に広々と棚田は拓かれて「いるのです。右下に大きな用水ため池が見えています。
300m近い雪の棚田の斜面を歩き廻って少しばかり疲れた私は棚田の中腹に腰を下ろして柳津の町の景色を眺めていました。
只見川沿いの山際にある野老沢の集落は水田にする平地が少ないので集落のお祖父さんのそのお祖父さんの遠い昔から一家をあげて山の裾野の緩い斜面に鍬やツルハシやジョリンと言われる地ならし用の鍬を使い藁縄で作ったモッコと言われる網に土を盛って棒を通し二人で担いで土を運び小さな水田を作り続けてやがて斜面の上まで続く棚田を作ったんでしょうね。
そして大正の末期から昭和の初めにかけては村を挙げての土木作業で形も大きさも不揃いだった水田を方形で大きさも揃った水田にし、用排水の堀も整備する耕地整理もしたんでしょうね。土木機械などない時代です大変な仕事だったと思うのです。だからどこの農村でもその苦労と成果を後世に伝えようと大きな石碑が立てられているんですね。
平成の時代になっては大型の耕作機械が導入されるようになったことと、米価の相対的な下落の危機を打開するために大型の土木機械による耕地の基盤整理がおこなわれました。工事が終わるまでの間は休耕しなければなりませんし国の補助があったとはいえその費用の負担も大変だったと思います。
そして近年米価の下落は大きくそして耕作者の老齢化が急激に進んでいます。集落の若者や子どもは急激に少なくなって本当に農村の危機が言われる時代になりました。
私は農家ではありませんけど貧しい奥会津只見の零細農家の出身です。この棚田の眺めを見ながら遠い棚田の歴史の流れを思い、棚田の未来を思わずにいられませんでした。
5月の田植えの時期にまた訪れて見るつもりです。どうかどうかこの棚田の耕作がいつまでも生きて続けられるよう祈らずにはいられない思いで棚田の中腹に腰掛けている私でした。