さんたろう日記

95歳、会津坂下町に住む「山太郎」さんたろうです。コンデジで楽しみながら残りの日々静かに生きようと思っています。

汚染ない圃場に笑顔のコンバイン

2011-09-28 | 日記

             取り入れの秋です。稲穂が黄金色に輝いています。

 広い圃場には取り入れの活気と喜びがあふれています。

 コンバインを田んぼに入りやすくするため田の角の稲を刈り取る人や、遠くに軽トラや刈り取った籾を軽トラに移すコンバインが見えます。活気のある圃場です。

ピカピカのスリーダイヤのコンバインです。大型のコンバインですごい速さで作業が進みます。刈り取り、脱穀し、藁を自動で結束し、あっという間に広い圃場の取り入れが終わってしまいます。


大きなコンバインが刈り取った籾でいっぱいになると籾を軽トラに移し奥様が運搬されます。



 
 
      4ヶ月まえこんなして植えられた圃場は

あっという間に刈り取られて秋の空は暖かです。心配された汚染も全くなく豊かな稔りを取り入れることの出来る会津の空は美しいです。


何より嬉しいことは、隠れた銘柄米会津坂下米に汚染が全くなかったことです。これで私も知り合いの農家の方から可愛い孫の新家庭においしい新米を送ってもらうことが出来ます。まごは坂下の米は違うと喜んでくれますから。





仮装山車賑わう坂下の秋祭り

2011-09-24 | 日記
 9月18日は今年最後の酷暑の日、そして町いっぱいに賑わう秋祭りの日でした。


 日頃静かな町が祭り囃しに浮たち、通りは太鼓台、仮装山車が行き交い、祭りを楽しむ人たちでいっぱいでした。



 たくさんの出店も出て賑わいました。でも、今年の祭りは猛烈な暑さのため本通りは日陰の南側に並びました。写真は安兵衛通りです。安兵衛通りは南北の通りですので両側に
並んでいます。


 たくさんの出店に子供たちがウキウキ楽しんでいました。わたしも留守番のばあ(家内)のために奮発して焼きそばの大を買いました。「儲がっかし?・・」と聞くと「それほどでも・・」と笑顔で品物を渡してくれました。出店の売り物は祭りの縁起物です。ばあに長生きしてもらいたいから・・・買いました。



祭りのメインは子供たちの牽く太鼓台と




 各町内自慢の仮装山車です。みんな楽しくて、大きいんですよ。たくさんの人が演技する人形に拍手しています。


 この山車は電動で動くんですよ。左側の大蛇が伸び上がって右側の巻物を口に結んだ大王に襲いかかるんです。するとそれぞれの人形が代わる代わる伸び上がり伸び縮みして剣を振るって大蛇を退治するんです。激闘シーンが繰り広げられるんです。なにかの物語にあるんでしょうね。世事に疎い爺には分かりません。ただただすご~いと驚き感嘆してしまいました。


 仮装山車についての物語を町内の可愛い子供たちが演技するのです。役場前の通りで審査して優秀町内山車を決めるんですけど、楽しい演技を見せる可愛い子供たちが乗っています。


 太鼓台、仮装山車に続くお囃子の皆さんです。心に響く太鼓とお囃子に祭り好きな爺は 感動して思わず涙ぐんでしまいました。



 仮装山車コンクールの演技の応援に熱中する町内の人たちです。


 仮装山車コンクールを楽しむ人たちです。


ご家族で祭りを楽しむ人たちです。


 楽しかったよね・・ 会津坂下町はいい町です。



諏訪神社例大祭稚児行列 会津坂下町

2011-09-20 | 日記
 秋祭りの可愛い稚児行列を見ようと朝9時例大祭の諏訪神社を訪れました。祭礼の幟は大きくはためいていましたけど人の姿はまばらで静かでした。


 平成21年の火災で焼失した神社はまだ再建されず祭礼の神事は仮宮のテントの中でおこなわれていました。


稚児社参の稚児たちもテントの中でお行儀よく神事に参列していました。

 社参の稚児たちは来年小学校に入学する5歳の子供たちです。
 この日は残暑が厳しく猛烈な暑い日でした。でも正装した稚児たちは1時間近く暑いテントの中の神事に行儀よく参列していました。偉いですね。

長い神事が終わってテントから出た稚児たちです。みんなほっとして可愛いです。


 お母さんに支えられてお清めする稚児さんです。美しい冠と衣装は京都から取り寄せたものだそうです。神事の前の神妙な姿が可愛く美しいです。

 ちゃんとお行儀よくやってきました。お父さんお母さんに褒めてもらっている稚児さんです。



猿田彦の先導で御輿渡御の行列の出発です。


 御輿渡御に続く可愛い稚児さんたちの行列です。

すごい暑さの中をけなげに行列する稚児さんたちです。



ご両親、おじいさんおばあさん、ご家族の愛をいっぱいに受けて、晴れの神事の中でお祈りをし、神の御加護をえた稚児さんたちの顔は輝いていました。

 私も、可愛い稚児たちの社参と稚児行列に心をうたれ幸せなひととき過ごすことが出来ました。稚児さんの未来の幸せ祈らずにはいられませんでした。

 でも、帰り道しみじみ思うことがありました。
 私は平成22年・21年は事情があって参列出来ませんでしたけど、3年前の平成20年この行事に参列させていただいたときには境内はいっぱいの人であふれていました。たくさんの稚児さんとご家族のかた。見物される方、テレビや新聞の報道の方などで雑踏していました。

 そのときの稚児さんの記念撮影です。


 35~36人くらの大勢の稚児さんですね。
 
 朝、盛大な稚児行列を期待して神社に来て見ると神事のおこなわれているテントの外にはほんの5~6人の人が見えるだけでした。私は呆然としてしまいました。
 お孫さんを参列させていらっしゃるお上品な若いおばあさんに様子をお聞きしてみましたら、なんと今年社参に参列した稚児さんの数はわずか9人なんだそうです。そして猛烈な暑さのためか稚児行列に参加した稚児さんは3人を見るだけでした。

 昨晩の提灯行列では元気なたくさんの子供たちが「やっこやれやれ」と叫びながら太鼓台を牽いていました。あのこどもたちの熱気はどこへいったんだろうと不思議に思いました。時代は大きく変わり流れて行くんでしょうか考え深いものがありました。
















提灯行列・会津坂下町

2011-09-19 | 日記
9月17日は坂下秋祭りの前夜祭の提灯行列でした。 提灯に飾られた太鼓台に各町内自慢のライトアップされた山車が町通りいっぱいになり、きれいでした。 「やっこやれやれ」子供たちの可愛い声の列に若いお母さんたち付き添っています。 心配そうなお母さんに子供たちの笑顔がいっぱいです。 楽しく提灯がゆれています 中学生も混じってのお囃子です。子供たちの心も見物人の心も躍ります。 各町内の山車が夜の闇に浮いています こんな怖い山車もありました。 出店もありました。「江戸前銀だこ」ってなんでしょうね。ジャンボたこ焼きのことだそうです。 明日は秋の本祭りです。楽しい夜でした。

豊穣の実りの遠き村を見る

2011-09-13 | 日記

 いろいろなことがありましたけど、今年も豊かに稔るの田んぼの遠くに平和な集落が見えています。その人ひとり見えぬ豊かな圃場に立って私は農村の大きな変革の流れをしみじみ思うのです。  

 1932年(昭和7年)頃でしょうか、まだ小学校低学年の幼い私は祖父の代掻きの鼻取りをしていました。祖父に「上手だ!上手だ・・」ほめられおだてられて得意になって仕事をした嬉しい思い出をはっきりと覚えています。当時はそんな幼い子供でも農作業の手伝いをしていたのです。「鼻取り=馬の口につけた竿で馬を誘導すること」

 1934年(昭和9年)頃でしょうか、東北を厳しい冷害の凶作が襲いました。小学2年生だった私にも凄惨な思い出が残っています。学校に弁当を持って来れない子も何人もおり、また持ってきた子の弁当も片隅に赤いカボチャが少しへばりついていました。(当時は給食などありませんから)子供たちは空腹に耐えていたのです。恐怖の思い出が重なっています。

 当時の若い小学校の校長先生が新聞にその窮状を訴えました。そして、当時としては破格の援助の炊き出しのお昼給食が小学校で行われたのです。朝、差し出した弁当箱にお昼には真っ白なご飯が詰められ鰯のめざしがついて渡されたのです。それは輝くような喜びの思い出です。あの厳しい時代にもこのような善意の救済があったのです。

 当時の東北の農村では、極貧の零細小作人がたびたび襲ってくる凶作に苦しみ娘を身売りしなければならないような悲惨の状況の中で暮らしていたと長じてからものの本で知りました。2.26事件の要因のひとつに若い青年将校が部下の出身地の惨状を憂い解決しなければという気持ちがあったと聞いています。

 その悲惨な状況から農村が立ち直ることができたのは戦後占領軍の指示で行われた農地改革でした。零細な小作人が自立した農民になったのです。たとえ労働は厳しく生活は貧しくても農民の顔に笑顔が見られるようになったのです。


当時のいきいきした農村の様子を画集「会津の百年」「会津の昭和」からお借りしました。1955年(昭和30年)頃の写真です。

一家あげての苗取り作業です


辛い作業だけれども楽しい田植えです。当時は田植えの時期には小中学校で10日前後の農繁休業がありました。小学校の子供でもしっかりと農作業を手伝ったのです。


 肥引きといわれる奥会津只見地方の大事な農作業です。まだ雪の残っている圃場を橇で堆肥を運んだのです。辛い作業ですけど声を掛け合う村総出の作業で楽しい年中行事のひとつでもあったのです。男も女も終わる頃には日焼けして顔は真っ黒でした。


 農耕の作業はすべて人力と馬や牛の家畜でした。奥会津で馬や牛は同じ屋根の下で暮らす大事な家族でした。私は今でも大事な家族を食べる馬刺しなど恐ろしくて食べる気にはなれません。


 集落には子供がいっぱいいました。集落の人みんなに愛されかわいがられ、ときには自分の子供同様に集落の人に叱られもしていました。
 節分の日には集落の子供が一緒になって家々を回り播かれた豆を拾って歩きました。
それぞれの家では大豆だけでなく子供の喜ぶ落花生や飴菓子も一緒に播きました。いまの子供なら見向きもしないでしょうけど当時の子供にとってはおいしいおやつでした。


 1960年頃、農村に変革の兆しが見えてきました。人力や牛馬にかわる耕作機械の導入です。馬や牛ににかわって耕耘機が爆音あげて田畑をを耕し、それを運転する人の誇らしげな姿に私は驚きました。
 
 1気筒のエンジンの冷却水が湯気を上げています。


 耕耘機・ティラーは驚くような速さで農家に普及して行きました。ティラーが道路を走るための免許取得の講習会たびたび開かれるようになりました。


 そして農村の機械化は驚くような速さですすんでゆきました。地べたに這いつくばっての厳しい農作業の労働から農家の人は解放されたのです。耕作の機械化だけでなく栽培技術も改善されていきました。今では田植えの苗は農協などで田植機にすぐかけられるよう箱に栽培されたものを軽トラで運び、追肥や厳しい労働だった田の草取り(除草)などに手をかけることもなく、田植えから刈り取りまでほとんど手を加えなくても稲は育っていくようになりました。かつてはいつも働く人で賑やかだった圃場から人影は消え静かになりました。

 それぞれの農家では厳しい労働から解放されたけれども機械の購入費用や維持運用費が必要になりました。そして人力や馬や牛の力は必要がなくなりました。
 かつて田植えの時期には多くの人手を町の人のから得ていたのも必要なくなくなりました。もう田植え作業は2人で出来るのです。

 そこに経済産業のグローバル化と、米離れの食料事情の変化で、農作物、特に米価の下落が追い打ちをかけました。各戸の農業経営は厳しくなりました。

 農村ではムシロ旗を掲げ、米あまり対策の減反、農作物の価格下落を招く食料品の輸入に反対して各地でのろしを上げました。

 また減反耕作の援助金目当ての形ばかりの休耕田の麦や大豆の耕作が行われるようになり収穫されることのない休耕田の作物もときには見られる悲しい状況もありました。

 そして今、アメリカやオーストらリヤの大農経営の機械には遠く及ばなくても、農業機械は大型か、近代化されました。

 田植え前の耕耘・代掻きは大型トラターが高能率で行ています。広大な農地には遠く離れて数台のトラクターが見えるだけで作業は短期間で終わってしまいます。



 田植えも同じくご主人が高速の田植え機械を運転し奥様が軽トラで苗を運び、広大な田んぼの田植えは二人だけで出来るのです。



 かつて賑々しかった田植えは広い圃場が2・3人の人で静かに一見のんびりそうにすすめられるのです。


 もう農村では人手はいらないのです。また各戸で大型耕作機械を購入することは無理でもあり無駄でもあるのです。大部分の農家は零細地主となって耕作者に委託栽培をしてもらっているのです。

 いま農業耕作している人は各集落の一握りの、それも60歳前後の人たちです。農地では働き盛りの人や若者の姿はほとんど見当たりません。

 TPPが農業を変えるだろうと言う声も聞きます。でも私にはその前にもう農村は大きく変革する時期に来ているように思えてなりません。

 5年後・10年後、今大型耕作機械と進歩した農業技術で農業を支えている60代前後の人たちはどうなるのでしょうか、優れた農業技術や大型耕作機械の操作を受け継ぐ人がいるのだろうかと不安です。

 でも、かつてむしろ旗を立てて政府を糾弾し農村維持政策を声高に要求した時代とは今は明らかに違っています。

 いま、農村では減反政策や低米価に抗議しムシロ旗を立てる人は見えません。
 かつて休耕田耕作の補助金目当てのごまかし栽培はもう見ることはありません。そしてはっきりと利益採算をめざした農業経営が見られるようになりました。

広い休耕田には蕎麦の花が見事に稔っています。蕎麦や麦の収穫用のコンバインをもっている人も知っています。


 市場出荷目当てのキュウリ栽培培のビニールハウスや

 
アスパラカス栽培の畑や

 肥肉牛の飼育


 などのしっかりした農業経営があちこちに見られ、しかもそれぞれが隠れて名産品になっているとも聞いています。

 一時、他地区から購入した藁を飼料につかいひ肥肉牛が放射能セシューム汚染の恐れも?と報道されたこともありましたけれど今は改善されているようです。風聞被害もまもなく消えると思います。

 いままで、いろいろの苦難を乗り越えて村は生き残り発展してきました。農村の改革を政府などの他力に頼るのではなく、自力の活力で改革して行こうとする力が見えるように思います。

 私たちの集落には生活保護とか、ニートとか、人様の援助にすがるようなお家は一軒もありません。皆様がそれぞれの立場で生き生きと活動されていらっしゃいます。

 子供たちはこんなに元気です。

 
そして心躍らす秋祭りはまもなくです。

 老体の私も希望をもって明るく生きてゆきたいと思います。