さんたろう日記

95歳、会津坂下町に住む「山太郎」さんたろうです。コンデジで楽しみながら残りの日々静かに生きようと思っています。

いつまでも女の人は美しい

2012-01-28 | 日記
 10年ほど昔かな(今85歳ですけど)近頃目を惹く女の人がいなくなってしまった。若い頃はあんなにたくさん見えたのにどうしてだろうと不思議に思ったことがあります。


 85歳になった今はそれがよく分かります。人間が老いて枯れただけの話で悩みもなにも消えてなくなったんだということがよく分かります。平和になったんですね。悟りが開けたということでしょうか・・・

 惚けた私は1年ほど前、リオンドールでの買い物のレジが終わって近くの机の上に財布を置き忘れそのまま家に帰りました。するとまもなくリオンドールのレジの係の方から「財布が置き忘れてありました。取りにきてください」と電話がありました。
 財布の中に「つたや書店」で本を注文する時のメモが入っていたのです。財布の中には「ばあさん」から預かった○万円が入っていましたから貧しい年金暮らしの私には助かりました。

 さっそくお伺いして財布を受け取り礼を述べると、とっても暖かく優しい感じの、なんか心を引きつける美しいおばさんでした。

 私の家はばあさんの足が不自由なので買い物は全部私がやっています。それ以来リオンドールでの買い物のレジは必ずその方にやってもらっています。真剣な顔で買い物の品を数えながらレジに打ち込んでいらっしゃる姿を見ながら「豆腐2丁」とおっしゃる声に思わず「ハイッ」などと答えてしまって、二人で吹き出してしまったり、「この魚で鍋ですか?」などと言われて「料理はみなばあちゃんですから」「いいですね」などと言葉を交わしてほほえんだり、レジをしてもらいながら心が温まるのです。

 どんなに混んでいようがレジは必ずその方です。心が温まり「綺麗な方だな」と密かに思うからです。

 男にとって女の人は、老いようが枯れようがやっぱり美しいんですね。


しょもない爺の独り言です。

寂しかった高齢者講習会、若者の消えた町

2012-01-20 | 日記
 私の生年月日は1927年(昭和2年)1月3日、85歳、運転免許をとって40数年、今年は免許証の書き換え年です。当然高齢者講習を受けなければなりません。

 認知症検査があるんだそうです。
 充分にボケてあきれ果てるほどの記憶力の減退・・パス出来るのかな。85歳の老人も少年のような不安と心配をしながら会津平和自動車学校を訪れました。

 結果は次の通りで安心しました。

反応動作の速さは良好です。複雑な場面での判断の速さも問題がありません。
総合判断 同年代との比較し優れている。30~50歳との比較し普通。ということです。

 若い綺麗な女の方においしいコーヒーなども出して頂きましたし、指導員の方も親切、自称75歳の老体も受講者仲間との会話も弾み講習は楽しかったですよ。

 でも、帰る時、すごく寂しく不安な気持ちで自動車学校をあとにしました。

 3年前の講習の時には受講者仲間が15人前後いて、同年配の友人もいてお互いのボケ具合を笑いあって賑やかでした。
 でも、今回はわずかに6人、それも70歳代の若い人ばかり、やむなく75歳と自称して仲間に入れてもらいました。

 私たちが車での実地講習を受けている間、広い教習場では大型車1台、大型除雪車1台が教習を受けているだけで普通車の教習は見当たりませんでした。3年前は一般車の教習も多く賑やかで気を配っての講習だったように思います。

 米作農家を中心とした私たちの町は、新しく免許を取る若者は3年間の間に激減してしまったんですね。
 
 かつては各家の農家には小型のトラクター、田植機、コンバインなどの耕作機械があって夫婦や家族が力を合わせて農作業をしていました。農村集落は子供や若者も多く賑やかでした。

 今は耕作機械は超大型で抗能率になっています。価格も一千万円近くするのではないでしょうか。小規模の農家にはもう耕作機械はありません。所有農地が2~3ヘクタールの農家はもう単なる小地主になって耕作は大型耕作機械を持つ人に委託栽培してもらっているのです。その上米価は下落し小規模農業は成り立たないのです。

 それに大型機械で数10ヘクタールもの耕作をしている方は各集落で2~3戸、奥さんが軽トラを運転してご主人が大型耕作機械で農作業をして経営していらっしゃるようです。しかも年齢は60歳前後の方が多いようです。

 もう、農村では人ではいらないのです。若者は町から出てゆき、農村の高齢化が激しく進んでいるのです。自動車学校の寂しい様子を見てそう思えてなりませんでした。

 TPPがあろうとなかろうと農村はまもなく大きな変動があって人口は激減してゆくような気がしてなりません。

 広い圃場には働く人姿は見えません。

 農村が疲弊し崩壊しても都市の企業が繁栄すればいいんじゃなかろうか。
 それは違うと思います。今まで農村で買ってくれた大型耕作機械、自動車、そのたもろもろの農村の大きな市場が崩壊します。スーパーもコンビニも生協もJAも農村から消えて老人ホームと葬祭センターだけが残ります。大きな農村の市場を失った国内の企業は衰退して海外に移転してしまうでしょう。

 美しい景観などと喜んでいた山間の棚田や千枚田は荒廃し雑木林になり集落は消えるでしょう。一部の特殊な所を除きボランティアさんの助力で山間の農業経営が成り立つはずがありません。

 気候変動で世界的な食料不足が到来したしたとき農村の崩壊した日本は生き残れるのだろうか、67年前の太平洋戦争終戦時を越える飢餓の惨状に苦しまなければならなくなるんじゃなかろうか。

 そんなことを考えながら、なんだか寂しく悲しい気持ちになって自動車学校を後にしました。




燃えあがる炎に今年も幸の神

2012-01-19 | 日記

 歳の神、幸の神、さいのかみ、
 正月の15日の夜、それぞれの集落で、それぞれの人たちが、ひとりひとりの幸せを祈って燃やす聖火です。


 可愛い集落の子供たちがそれぞれのお家を回って正月のお飾りや藁を集め、若いお父さんたちが作った歳の神の炎です。


 真っ白な雪の中に昨年のいろんな思い出を集め、新しい年への祈りを込めて歳の神の炎は燃えあがるんです。


 集う集落の人々のいろんな思いと敬虔な祈りの中に尊い炎は燃えさかるのです。


 昔から歳の神の炎で焼いた餅やスルメを食べた人は健康に過ごせると言われています。


 ボクだって、お父さん、お母さん、おじいさん、おばあさん、可愛い弟や妹のために餅を焼くんですよ。


 暖かく燃えあがる歳の神の炎中で集落の人たちの幸せがいっぱい輝いているんです。


 旧暦正月15日は望(もち)の正月です。14日はみつのきに団子をさし、雪の上に藁で田植えのまねびをし新しい年の豊穣を祈る日でした。旧暦では歳の神の夜は満月だったんですね。

 歳の神は所によって呼び名や形など違うようですね。
 私が幼い頃過ごした大川村小立岩(現南会津町)では「せえの神」と呼んで村外れに子供たちが橇で正月の飾り松や藁を集め、若者たちが大小二つの円錐形の歳の神を作りました。
 どういう訳でしょうか、おいのり後おとなの人が火をかけるのですが、子供たちがそれを消して回っていました。でもやがって燃えあがる歳の神の火に子供たちも喜びの声を上げていました。

 私の古里只見町では歳の神を「おんべ」と呼んでいました。
 村外れに、子供たちが飾り松や藁を集め、若ものたちが大小二つの「おんべ」を作るのは同じでしたけど、大きく違う所は「おんべ」は杉の木の高い心柱を立てそれに藁を巻き付け頂に御幣をつけた見事な藁の飾り柱をつけていました。やがて火をかけたとき焼け上がる火の柱が見事でした。

 私は民俗学のことは全く分かりません。
 でも、何となく歳の神は、心の中で賽の神に思えてなりません。幼い頃の思い出に大宮村木伏(現南会津町)に大きな木の柵で近づけられないようにした囲いの中に「さえのかみ様」が祭られており、そのご神体は巨大な石で出来た男女の性のシンボルであるときいたことがあるんです。でも子供は見てはいけないものだったようです。

 そして、残された数は少ないけれども集落の外れに「さえのかみ」と呼ばれる双体道祖神を子供の頃目にしました。

 会津三島町大谷の道祖神です。男神はとっくりを、女神は盃を持っています。所によっては男女で餅をついている双代道祖神もあると聞いています。
 (三島町散歩からお借りしました)


 私の幼い頃、只見町の新しい家の「ぐしあげ」(家の屋根の一番上の横木を据えて家の完成を祝う)にはぐしの東に男性の、西に女性のシンボルを掲げ、ぐしもちと呼ぶ三角に切った餅をまきました。その餅を食べると健康で幸せに暮らせるといって争って拾いました。どこの家でも古い家ではすすけた男女のシンボルがぐしの両端にしっかりと控えて家族を悪病神から守っていたのです。

 「おんべ」も歳の神も大小の双体ですね、その火で焼いた餅を食べるとけんこうで幸せに暮らせるのです。

 遠い昔、男女のシンボルは聖なるもので集落や家を「はやりやまい」やいろいろな災害の悪病神から守っていたような気がするんです。悪病神は聖なる双体の神を見ると恐れて逃げ去ったんだと思うんですよ。

 そんなおかしなことを考えながら老体の爺は歳の神で焼いた餅を食べ固いスルメを食べました。今年も健康で過ごせるなと思いながら。





流れる星は生きている

2012-01-15 | 日記
 今、私は3冊の本を読んでいます。「家の履歴書」と「流れる星は生きている」そして「国家の品格」の3冊です。

 家の履歴書は一流の文化人や芸術家たちの住んでいた家にまつわる生い立ちを、斉藤明美氏が取材して「週刊文春」に連載したものを1冊にまとめたものです。
 懐かしい思い出の家の細やかな見取り図と一緒に一流の人たちの生い立ちが温かい目で語られています。

 その中で、藤原正彦氏(旧満州生まれ、作家新田次郎・藤原テイの次男、数学者でコロラド大学助教授、帰国後お茶の水大学教授、250万部のベストセラー「国家の品格」の著者でエッセイスト)の記事を興味深く読みました。

 図は、氏の幼少時に暮らした中央気象台官舎の10坪の図です。そして氏は「このたった十坪の家が僕らにはもう天国みたいなものでした。ご飯とお味噌汁とお香しかなくても毎日家族の笑い声があって一番幸せな時でした。」そしてそれは貧しいか金持ちかということと幸せとはなんの関係もないという典型的な証拠ですとおっしゃっていていました。


 その幸せそうな氏の生い立ちに、死と隣会わせの恐怖の体験があったのです。

 4歳の幼いときの正彦ちゃんは母親が健康を害されたため信州の祖父母の家にあずけられました。それは氏にとって最高に楽しい時だったとおっしゃっています。
 祖父母の愛を一身にうけ、村中の子供たちのガキ大将になって、いつも子分をつれて隣村の子供と石合戦をし、一番でかい奴に殴りかかることも平気な正彦ちゃんだったんだそうです。
 でも、その元気でたくましい正彦ちゃんはどういうわけか水が怖かったのです。なんでもない小さな小川の流れが怖くて子分たちが何気なく渡った小川が渡れなくておびえる正彦ちゃんを、みんな不思議がっていたんだそうです。

 それは正彦ちゃんが幼くて記憶には残らなかったけれども、2歳の時体験した恐怖のトラウマが原因だったのです。

 1,945年(昭和20年)8月9日、平和に暮らしていた正彦ちゃんたち日本人の住む旧満州に突如ソ連軍が襲いかかってきたのです。信頼を寄せていた日本の軍隊は民間人を捨てて一斉に逃走し崩壊したのです。暴虐の限りを尽くすソ連軍の恐怖の惨状を切り抜けて民間人は必死に故国へ引き揚げてきたのです。

 正広ちゃんら三人の母親のテイさんも、頼みの夫はソ連軍に拉致され、たった独りで6歳の正広ちゃん、2歳の正彦ちゃん、生まれて1ヶ月ほどの咲子ちゃんの三人の愛児をつれて旧満州から北朝鮮を通り38度線の山と川を徒歩で越えて決死の引き上げをされたにです。

 その1年余り、死と隣り合わせの惨状を耐え抜き生き抜き帰国された記録が母親藤原テイ氏がお書きになりベストセラーになった「流れる星は生きている」なのです。

(抜き書き1)
 「逃げるんだ!、逃げるんだ!、逃げ遅れると私たちは殺される」私は38度線までこう心を叱咤しながら歩いた。
 正広はまもなく、めそめそ泣き出した。
「お母ちゃん、歩けない」
 正広のことなんかかまっていられない。
 私は正彦を十歩は抱いて歩き、十歩は手を持って引きずっていった。背中の咲子と首に吊った荷物が雨に濡れて重くなってきた。・・・略
 頭の中が妙に空白なっていながら前進すると言うことだけが激しく私を支配して、歯を食いしばり、正広と正彦をどなりつけていた。

(抜き書き2)
  一家4人が立ちつくしている前には広い川が行く手をさえぎっていた。先にゆく人の渡るのをじっと見ていると一番深いところが私の胸ぐらいあった。中心近くは水の流れが激しくて渡ってゆく人の姿勢が高くなり急に低くなったりする。
 私はまず咲子を背負って向こう岸に下ろすと、すぐ引き返して正彦を抱いて水に入った。私の疲れ切った腕にはそう長くは正彦をささえきれない。何度か水の中に正彦をつけた。水の中に入れると正彦はずっと軽かった。正彦は水の中を引きずっていかれる恐怖のために、「ひいっ! ひいっ!」と泣いて私にしがみつこうともがいた。「泣くと川の中へ捨てちょうぞ!」私は正彦の身体を後ろから羽交い締めにしてやっと川を渡った。
 後にはまだ正広がいる。「お母ちゃん!」正広の呼ぶ声が聞こえる・・・
 (そのときの正彦ちゃんの恐怖が水を恐怖させるトラウマになっているんですね)

(抜き書き3)
  38度線を越えてアメリカ軍に助けられ・・・
 テント村にはすばらしく完備した医療施設があった。正広を横抱きにして私はこのテントをくぐった。医師は私の足の裏を見て「ううん、これはひどい、よく歩いたものですね」 医師は私を手術台に寝かせて、ピンセットでまず肉の中に入った石の摘出を始めた。小石をピンセットにはさんでは金属の容器に捨てるごとにカチンカチンと音がした。だんだん奥の方にピンセットが入っていくとやけ火箸でさされるように痛かった。ベットにしがみついて我慢していたがついに痛さのために脳貧血を起こしてしまった。私の足の裏は完全に掘り返され、血液にどす黒く光っている発掘物が金属の容器の底にかたまっていた。
 「ひどい足でしたね」と医師は汗を拭いていた
 「当分歩いては行けませんよ」
 医師は人ごとのようにいってから、正広を呼んだ。黒い大きな目に涙をためて私がどうされるかを見ていた正広は、今度は自分がそうされると分かると悲鳴を上げて私にかじりついてきた。泣きわめく正広を押さえつけて手術は終わった。

(抜き書き4)
 父母のいる信州のふるさとが近い汽車の中で・・
「さあ正広ちゃん、おばあちゃんの家へもうすぐつくんだよ、きれいにしましょうね」  正広の頸は細く痩せ細って、その上に全く調和のとれない骨だらけの大きな頭がのつかっていた。その大きな頭をやっと支えるように息をついている。目だけが底光りをして大きかった。
「正広ちゃん、さあ、顔を綺麗にしなくちゃあ、ね」
 正広の青黒く沈んだ顔の色と腰から下の不甲斐ないほどふらふらしている身体が、顔を拭くごとに左右に傾いて倒れかかった。

「正広ちゃん、随分お母さんはあなたを叱ったわね、ごめんなさいね、もう決して叱らないからね、おばあちゃんの処へいったらたくさんご飯を食べて早く立派な身体になってちょうだい」

 正広が一番私に叱られて、そして私のただ一人の信頼出来る人間であった。こうしてここに立っている7歳の吾子に私は一年の間の謝罪を手をついていってやりたいほど悲しかった。

 朝霧の中を突き破るように汽車は走っていた。

  この抜き書きを書きながら私は涙が流れて止まりませんでした。

 そして30年後の昭和51年(1976年)この本の後書きに藤原テイ氏はこう書いていらっしゃいます。
 当時5歳だった長男の正広も今は35歳、大学で機械工学を勉強して自動車会社に勤めている。
 「お母さん、ボクはお腹一杯なんだよ。だからこのおいも、赤ちゃんにあげて・・」
 3日食べない空腹をかかえて、かれはこんなことを言って、私を助けてくれた。多分5歳の知恵の全力だったのだろう。だから、私は心して彼の前で、引き上げの話はしないことにしている。
 当時2歳だった次男の正彦は、アメリカの大学で数学を教えていたが昨年帰国し今は日本の大学で教鞭をとっている。この次男は、あまりに当時幼なすぎて引き上げの苦しみはまったくないと私は考え続けていた。その彼が「どうしてボクは川が怖いのだろうか、日本でも、アメリカにいたときもどんな小さな川でも一応立ち止まって考えてからわたるんだが・・」つい先頃の話である。私はまじまじと彼の顔を眺めた。
 当時、生まれたばかりの娘の咲子も30歳になった。大学で文学を勉強していたので小説でも書き出すのかと思ったら、自分で結婚の道を選んだ。すでに二児の母になっている。
「好き嫌いをしては行けません、ママたちの小さい時は・・」 などと子供をしかりつけている。

 1年余り、母とともに死と隣り合わせの惨状を耐え抜き生き抜き帰国された3人の子供さんたちは皆超一流の道に輝いていらっしゃるんですね。


 この本は楽しくっておもしろくって、そして本当にそうだ、その通りだと声を上げて叫びたくなるような、日本と世界の有り様を書いた本「国家の品格」です。

 もし、あの川を渡るとき母親のテイさんがつかれはて倒れて流れ死んだ多くの人達のようになっていたら、いま輝いていらっしゃる三人の姿がなかったんだと、本当にこの尊いものに心がうたれるのです。

 67年前の日本の歴史の中にはこのような悲惨なことがたくさんありました。その一部を体験している85歳の老爺はけっして日本人は忘れてはいけないとことだ思うのです。
 そして、女の人が、母親の方が、しっかりとお持ちになっている強さ、たくましさ、おおらかさな、なにものにも負けない強い強い愛情に心をうたれて尊いことだと尊敬しないではいられないのです。  












女の方ってすごいと近頃思うんです

2012-01-12 | 日記
 85歳、晩期高齢者にもなってくるとものを見る目がかわってくるんですよね。そのひとつに女の人を見る目が大きくかわってくるんです。そうです女の人が人間として見えてくるのです。おかしな言い方ですけど、若い頃は女の人を男性として見ていました。美しい女性・・男の目を引きつける魅力的女性・・として見ていました。
 85歳の今は女の人を人間が人間を見る目にかわってきたのです。

 女の人って人間としてうつわが大きくてものに動じない強さと優れた能力やセンスをお持ちの方がいっぱいいらっしゃって本質的には女性は男性より優れた能力を神からもらっているんじゃなかろうかと思うようになってきたのです。


どうですこの美しくいきいきした女の方の姿、男の姿が小さく見えますね。


女の方の強さと迫力には男性はかなわないんですよ。


 可愛いこども抱くお母さんの姿は暖かく強くたくましいです。神様与えてくださった美しさと強さなんですね。

 女の人って人間としてうつわが大きくて、ものに動じない強さと優れた能力やセンスをお持ちの方がいっぱいいらっしゃって、本質的には女性は男性より優れた能力を神からもらっていらっしゃるんじゃなかろうかとしみじみ思うようになってきたのです。

 卑近な話で恐れ入りますけど、私の家内の82歳のばあさんは毎日韓ドラに夢中のごくありふれた平凡なばあさんです。


 でも、85歳の私は時々ばあさんと大げんかをします。こんな不届きなばあさんを許せないと怒りに心がいっぱいになるのです。
 ところが時がたって振り返ると100%ばあさんの考えや行動が正しくて私が間違っていることが分かるのです。そのことが知っていながら、また、そのばあちゃんが許せないと大げんかしてしまうのです。   
 だから心の底ではばあちゃんが頼りでばあちゃんの大きな心に包まれて生きているんだとおもっているんです。


 今朝も貧しいけれども暖かいばあさんの朝餉を食べながら、平凡なばあさんは女だからすごいと思いながら2階に上がってパソコンの前に座りました。