さんたろう日記

95歳、会津坂下町に住む「山太郎」さんたろうです。コンデジで楽しみながら残りの日々静かに生きようと思っています。

雪消えのじじいの春がよみがえり

2013-03-21 | 日記


 雪解けの圃場の畦には、春一番に咲くオオイヌノフグリの花が星の光のように輝いていました。(虚子の俳句からいただきました)

 昨日の暖かい春の散歩道でじじいは嬉しさいっぱいでした。
 なぜって、昨日は心筋梗塞発病前の4キロメートル近いコースの散歩道に挑戦して息切れせずに歩き通せたからなんです。

 3年前、心筋梗塞で緊急入院したじじいは主治医の先生に心臓の血管の一部が血液のかたまりで詰まってしまい、血流がとまり心臓の筋肉の三分の一が壊死してしまったと言われました。

 そして3ヶ月の入院を退院した時は100メートルほどのリハビリ散歩でも息切れして休まなければなりませんでした。しかしその後リハビリに努めて500メートルほどの散歩道は休みながらですけど往復でき、町のお祭りなどの写真を撮ることも出来るほどには回復していました。

 それでも、ばばちゃんが心配すると悪いので言いませんでしたけど朝のじじいの担当の掃除と洗濯で、最後の仕事の洗濯物をハンガーに掛け終わる頃は辛く息切れがしてようやく立っている状態でした。それが10日ほどまえまでの私の現実でした。

 それが10日ほど前の散歩の時、突然おかしなことがおきたのです。 普通なら息切れして歩っているはずなのにまったく息切れしてない自分にふと気づいたのです。
 あれっ、変だなと思って普通ならついていけないおばさんのあとを歩度を早めてつけてみたのに息切れがしないんです。なんだか心筋梗塞発病前に帰ったようなさわやかな感じなんです。

 怖いので散歩の距離は伸ばしませんでしたけど、歩度はどんどん早めて見ました。でも息切れはしないのです。そして3日前は5キロメートルほど離れた春日八郎記念館までサイクリングが出来るようになったのです。

 ばばちゃんにそのことを話すと「偏屈でいじっぱりの爺ちゃんだから100歳までいきるかもしれない」なぞと嬉しそうに言いました。

 それで思い切って昨日、4キロメートルコースの散歩に挑戦して見たのです。 3年間短い散歩しかしていませんから足の筋肉は弱っていて疲れましたけども息切れはまったくしなかったのです。

 素人考えですけど、あるいは心臓の細い血管が血のかたまりで詰まったとはいっても血流が僅かに流れていて心筋の動きは弱まっていても、壊死はしていなっかたのかもしれません。そして血液さらさらのなどの治療薬のお陰で血管に詰まった血のかたまりが溶け血流が復活して心臓が普通に動くようになったのかもしれません。

 嬉しさのあまり自分のことを長々と書いてご免なさい

 ともあれ昨日の散歩は嬉しい散歩でした。来月定期診察のおりに主治医の先生の指導を受けながら無理をしないでリハビリを続けますけど、生き返ったような今の嬉しい気分なんです。

泣けた泣けた、こらえ切れずに、泣けたっけ

2013-03-20 | 日記


私たちの町ご出身の春日八郎先生のお姿です。会津坂下駅の公園にお立ちになって「ここが私の古里」だと微笑んでいらっしゃいます。

あの娘と別れた悲しさに
山の懸巣も啼いていた
一本杉の
石の地蔵さんのヨー村はずれ






まだ雪の残る早春の道を春日八郎記念館までサイクリングしてきました。誰もいない雪のたんぼ道をいいことに音痴のじじいがしみじみと心を込めて泣けた、なけた、こらえきれずに泣けたっけ・・」と歌いながらのサイクリングです。「山の懸巣も啼いていた・・」86年のいろんな思いを思いながらの独りのサイクリングでした。

しみじみと生きてることが嬉しくて

2013-03-19 | 日記


 昨日、私はすごく懐かしいお方にお会いしました。

「さんたろうさんではありませんか、私のことわかります?」とお上品な初老の女の方に声をかけられたのです。でも懐かしい顔のお方なんですけど、ボケ老の私にはどのようなお方だったのかが思い浮かびませんでした。

「恭一の家内です」とおっしゃる言葉に、一瞬30数年前のことが思い浮かび「お幸せそうでよかった!」と思わずその方の肩をだいて私は叫びました。

 ばばちゃんに言いつけられてスーパーに買い物にいって籠いっぱいのカートを押して店を出た時のことなんです。その方は店の中でずーっとさんたろうさんじゃないかと見ていたとおっしゃるんす。

 30数年前私たち夫婦は私の勤めの関係である町の町営住宅に暮らしていました。そして近くにお住まいの恭一さんご夫婦と親しくおつきあい頂いておりました。
 でも、悲しいことに若くして恭一さんは病でお亡くなりになり、奥様は悲しみのうちにとりあえず実家のほうにお帰りになることになりました。

 私たち夫婦は奥様とお別れする数日前、少しでも慰めと思い出になればとご一緒に吉カ平らの水織音(みおりね)の里に早春のミズバショウの花を尋ね喜んでいただきました。 それ以来30数年ずーっとお会いすることはなかったのです。

 お聞きすると、その後縁あって有力な町会議員の方と再婚なさり今は幸せですとおっしゃいました。ほんとうにお幸せそうな姿に嬉しくなりました。

 帰宅してばばちゃんにそのことを話すと、ばばちゃんの顔もも喜びに輝きました。
 あんなに悲しみにうちひしがれていたお方が今は幸せいっぱいになっていらっしゃる、私たちも嬉しくて幸せいっぱいになりました。

 今日の散歩のおり、早春の雪の消え間の流れにコガモやカルガモたちが泳いでいるのを見ながら、生きていることはいいことだとしみじみ思いました。

美しい人のまなじりあげた薙刀一閃し

2013-03-18 | 日記


 タイトルも、高い広告塔もちょっとばかり大げさでおもわゆい感じもありますけど、会津戊申戦争で20数名の娘子軍(じょうしぐん)を率い戦場に赴き花と散った中野竹子の言い伝えです。

 その有名な中野竹子の墓が私たちの町坂下の法界寺にあるのです。




 中野竹子は会津藩江戸詰勘定役中野平内の長女で江戸に生まれ江戸で成長しました。幼い頃から聡明で学問にも武芸にも秀で特に薙刀の腕は道場の師範代をするほどだったと言われています。また、妹優子とともに竹子姉妹の優雅な美しさは評判だったとも言われています。

 慶応四年(1868)鳥羽伏見の戦いに幕府軍は西軍に敗れ将軍慶喜は江戸に帰り上野寛永寺に入り謹慎し、会津藩主松平容保は江戸城登城を禁じられ会津に戻り、中野竹子一家もともに会津に戻り会津坂下町の親戚の家に寄寓しました。

 やがて、会津若松城下に敵接近の早鐘がなり、竹子は母こう子、妹優子とともに城に向かいましたがはや城門はとざされていて入城出来ませんでした。

 竹子は遅れてともに入城出来なかった家老神保修理の妻神保雪子らと自発的に娘子隊を結成し薙刀を持って集まった隊員は20数名になりました。

 竹子ら娘子隊は、藩主容保の義姉照姫が坂下に避難してると聞き照姫を警護すべく坂下に向かいましたが、照姫はもはや城にいることを知り法界寺に宿泊しました。

 翌日、高久村に駐留していた家老萱野権衛に従軍を願い出ましたが、婦女子までも戦いにかり出したとあっては会津藩の恥とかたく拒否されました。、ならば自決すると強固な娘子隊にやむなく旧幕府歩兵の衝鋒隊に従軍を認めました。娘子隊は全員断髪し男装していたので白虎隊と間違われたとも言われています。

 8月25日夕方、娘子隊は若松黒川の涙橋に陣を構え西軍を迎えうちました。西軍大垣藩の兵士は娘子隊が女であることを見抜き生け捕りにしようと攻め寄せましたが中野竹子を初め娘子隊の薙刀に切り伏せられ慌てて兵を引きました。しかし先頭に立って奮戦していた竹子は西軍の銃弾を頭に受けて倒れ、駆け寄った妹優子(16歳)と母こう子に介錯を頼みましたが、髪が絡んでうまく首を切り取ることが出来ませんでした。それを見た郷士身分の上野吉三郎というものがが首を回収したと言われていわれています。

 中野竹子の首は法界寺の梅の木の下に埋葬されました。享年22歳でした。

 竹子の薙刀には辞世の句「武士(もののふ)の猛き心にくらぶれば数にも入らぬ我が身ながらも」と書いた紙が結ばれていたと言われています。

 いまも坂下には、竹子が坂下に寄寓していたおり、竹子が男女混浴の風呂屋を嫌って自宅のたらいで入浴していたところを、江戸帰りの絶世の美女を人目見ようと覗きに来た男どもを薙刀を振るって台の宮まで追い詰めあやまらせたという逸話が残っています。

  ネットでみた「日本歴史武将人物伝」「井関敬嗣先生、会津坂下の伝説と史話」によりました。

雪の消え間に小さな花が咲きました

2013-03-17 | 日記


 じじいが見つけた春一番の青い花、オオイヌノフグリの花が咲いていました。可憐なきれいな花なのにおかしな名前がついてます。でもじじいの好きな花のひとつです。

 ネットでみたら、花言葉は「誠実」「清浄」だそうです

そして
 いぬふぐり星の瞬く如くなり 虚子
とありました。