さんたろう日記

95歳、会津坂下町に住む「山太郎」さんたろうです。コンデジで楽しみながら残りの日々静かに生きようと思っています。

懐かしい冷害凶作の時の思い出

2021-05-26 | 日記

私が小学校2年の頃(昭和9年1934)の冬はすごい豪雪でした。5月になっても1m近くの積雪が残っていて田んぼに苗床がつくれないのでした。集落の人たちは相談して皆鋸とスコップを持って集まり鋸で積雪を切ってスコップでのけてようやっと田面をだして5月末には苗床を作ることが出来ました。大人の人たちはみんな心配で心配で必死の作業だったと思います。

でも私たち小学校2年の頃の子どもたちにはその作業がなんかお祭りみたいに見えて愉しんで見ていた記憶があるんです。その年は気温が上がらず米の収穫はほとんど皆無でひどい凶作でした。

当時の東北地方の農村では○○さまと言われる大地主が小作人を抱えて稲作の農業をやっていました。小作人は凶作であっても定められた小作料を納めなければ小作地を取り上げられてしまいます。やむを得ず一家が生きるために娘を女衒(ぜげん人買い)に渡して銭貨を得たと聞いていました。

10歳を過ぎたばかりの娘は親への孝行のためと泣く泣く遊郭に身を落としていったのです。あの有名な「おしん」の始めの頃のシーンに「おしん」の母が綺麗な着物を着て「おしん」に逢う場面がありましたね。「おしん」の母が一時身を落としていたんですよね。

でも、私の古里の小立岩の集落は農業が主の生活ではなくて山毛欅の林を切って行う「木のしゃくし」作りなどの仕事や、銃猟などによるまたぎ(熊や野ウサギやむささびなどの狩り)が主の生活でしたから当然地主と小作人などの関係はありませんでした。みんな平等で集落の人達に貧富の差などはほとんどなかったように思います。凶作で困るのはみんな同じに困って助けあって耐え抜いたのです

その年の凶作を集落の人達がどのようにして耐え抜いたかは子供の私にはよくは分かりません。でも級友の持ってくるお昼の弁当の中身が変わったのです。弁当の隅にカボチャと粟(あわ)などの雑穀の雑炊が少し入っているだけの貧しい弁当になったのです。

空腹の苦しみはつらかったんですけど、級友のみんなが同じような弁当でしたからなんだかそれがあたりまえのような感じで悲惨感はあまりなかったように思います。

 その頃父は普通の大きさの半分の大きさの原稿用紙(200字つめ)に必死に何かを書いていました。私が少し長じて残されて原稿用紙を見るとある新聞社名の入った原稿用紙でした。その新聞社に依頼されて小学校の子供たちの悲惨な状況を書いていたんではなかろうかと思っています。

その年の秋の深まった 頃私たちの小学校に大きな福音が訪れたのです。白米(ただしそれは台風の被害にあって濁った水をかぶり商品にならなくなった白米)と鰯のほうどしがいっぱい届いたのです。

こどもだった私にはそのいきさつは全く分かりません。でも嬉しかったのは集落のお母さんたちがそれをつかってご飯に炊き子供たちに空の弁当箱を持ってこさせて白米のご飯と鰯をいれて子供に渡して食べさせてくれたのです。

カボチャと雑穀の雑炊が少し入った弁当をたべていた私たち子供です。こども達にとってはすごくおいしい弁当でした。その給食がどこまで続いたのかははっきりとは思い出せませんけどしばらくはすごい幸せの時を過ごすことが出来たのです。

私の家のアルバムには父がフロックコートで正装した写真があるんです。

当時僅か職員3名、児童数60名ほどの小さな小学校の名ばかりの若い30歳代の校長の父がこんないかめしい正装などしているのは不思議に思っていました。

父は若くして 亡くなっています。子供だっただ私にははっきりした記憶ではないんですけども、なんとなくかすかに「遠いところからではあるが陛下のお姿を拝することが出来る集まりに招かれた時の写真である」と話すのを聞いたような記憶があるんです

今の私は父が真剣に書いていた新聞社名の入った原稿用と、凶作の時の子供の食べた白米弁当の給食と、フロックコートで正装した父の写真とはなんかかかわりあいがあるんじゃなかろうかと思ったりするんです。阿呆な私のまぼろしの夢かもしれませんですけどもね。

 

ほんとほんとあの白米とほうどしの鰯は本当においしかったんですよ。懐かしい思い出です。