さんたろう日記

95歳、会津坂下町に住む「山太郎」さんたろうです。コンデジで楽しみながら残りの日々静かに生きようと思っています。

雪景色広々と寒々と静かに暮れていきました。

2017-11-30 | 日記
そんな雪降る日の夕暮れに家内の姉は永眠いたしました。



一夜明けた雪の朝柿の実の赤が輝いていました。



義姉(家内の姉)は突然の病を得て奥会津只見から会津若松市の病院に救急車に運ばれて入院し担当の先生方や看護師の皆様方の力を尽くした治療をしていただいたんですけどわずか二日の入院で息を引き取りました。

娘たち夫婦やたくさんの孫たちの囲まれ、娘たちや妹である私の家内に手を握られて静かに息を引き取りました。89歳の生涯でした。亡くなる前日までは娘たち夫婦に「もう入院できたんだから大丈夫、心配しないで帰りなさいと」気丈にいう姉でした。その夜病状が悪化したんです。病名は腸閉塞(イレウス)でした。重い病に歳老いた身が耐えることができなかったんでしょうね。悲しいことです。

私は悲しみのなかですけども、娘たち夫婦や孫たちに囲まれて89歳の生涯を終えた姉は幸せだったんだと思いました。亡くなる前日まで娘たちを気遣う姉でした。私は姉は数年前に亡くなっている義兄(姉の夫)のもとには静かに旅立ったんだと思っているんです。

私は姉が亡くなって一夜明けた雪景色のなかの輝くような柿の赤に、姉の心が「有難うみんな」と言っているように思えてなりませんでした。 

合 掌

晩秋の裏町通りの散歩道に

2017-11-23 | 日記
美しく山茶花の花が咲いていました



さざんかさざんか咲いた道・・
私の子どもの頃なじんだ懐かしい歌ですけど、奥会津只見が古里の私は山茶花の花を今まで.見たことがなかったんです。ですから私には晩秋の寒さの中に美しく咲く山茶花の花ってどんな花なんだろうかと憧れみたいな思いがあったんです。

その私が昨日の散歩道で山茶花の花を始めて見つけたんですよ。あまりの美しさに感動してしまいました。

肌を刺すような冷たい晩秋の風の裏町通りを散歩していた私はあるお宅の垣根に美しい 赤い花が輝いて咲いていたのを見たのです。その花の葉は椿の葉にそっくりでした。
晩秋に咲く椿に似た赤い花・・・これこそ山茶花の花なんだと私は思い感激してしまったのです。

私の古里奥会津只見の山には雪椿がいっぱいあって早春に美しい赤い花を咲かせます。
奥会津只見は豪雪地帯です。「六尺以下は豪雪とは言わず 斉藤美規」つまり180cm以上積もらなければ今日は大雪だとは言わないということなんです。

山の冬は2mを越す積雪です。山に生えている椿は雪に埋もれて地に這うようにねています。そして春になって雪が消えると椿は薄くなった雪を撥ね退けて立ち上がり赤い花を咲かせます。ですから雪椿というんでしょうね。

写真はネットからお借りしました

私は裏町通りの美しい山茶花の花に感動しそして古里の早春の雪椿の花を思いました。私にとって11月20日はあこがれていた山茶花の花を始めて見た日です。こも感動の日(11月20日)をどこかで読んだどなたさんかの和歌に倣って私の山茶花記念日にしましょうか。ともあれこの日はあたしにとってすばらしい良い日でした。

雄国山系の初冠雪が輝いて見えました

2017-11-22 | 日記
冷たい晩秋の雨、時に雪も混じっての散歩道、雲の晴れ間から光がさっと射しました。輝く雄国山系の初冠雪です



雄国(おぐに)山系に囲まれたカルデラ湖の雄国沼(標高1006m)のまわりの湿原は日光キスゲの群落で有名です。若かった頃の私は愛犬マル(シベリアンハスキー♀)と一緒に度々車で訪れて周りの外輪山の雄国山や猫魔山の道の散策を楽しみました。雄国山系春のレンゲツツジ群落の花も綺麗なんですよ。

猫魔山には昔年老いた猫の魔物が住んでいて人を襲って殺していたという恐ろしい伝説もあります。山頂の猫魔石のところまでに来るとマルはしっぽをさげてしきりに匂いを嗅ぎまわりました。犬でも猫魔の伝説が分かるんでしょうかね。その頃はまだ雄国沼周辺への犬の出入りは禁止されていませんでした。マルは登山を楽しむ人たちみんなに可愛がられて声をかけれ喜んで得意になっていました。登山道の犬が珍しかったんでしょうね。

雄国沼湿原が国の天然記念物に指定される以前は周りの山に生える笹竹が大きくて立派で竹細工に適しているので山麓の人たちの笹竹採りの小屋があちこちにありました。また初夏に生える笹竹のタケノコは太くて美味しいのでたくさんの人たちが竹の子獲りに山に登りました。笹竹のタケノコは人間だけでなくツキノワグマの好物でもあります。屈強の男の私の友人はタケノコを採っていて突然熊と出会い鉈を振るって格闘して熊を追い返しました。しかし自分も噛まれて重傷を負いました。見舞いに行くと笑い話ですけど「いや~、熊に食べられて・・」と豪快に笑っていました。、今は雄国沼周辺は国の天然記念物に指定されていてペットの犬の入山も竹切りやタケノコ採りの入山も禁止されております。

私も元気で車があった頃は熊の糞があちこちにある近くの里山の尾根道の散策を楽しみました。でもカモシカには何度かあっていますけど熊に会ったことは一度もありません。私は山の尾根道は熊さんの大事な住まいの場所だと思っています。ですから山の尾根道に入る時は必ず熊さんに挨拶するんです。熊除けの鈴などはつけたことはありません。鈴などつけて入山するのは熊さんに失礼だと思っているんです。私は大きな声で「熊さんきまた来ましたよ・・今日は・・」とか「えっへ~ん」とか童謡「おてて、つないで野道を行けば・・」とか場所場所で声をあげて熊さんに挨拶をするんです。そしていつもまわりを注意して見ているんです。私は熊を怖いと思ったことはありませんし、また出会ったことも一度もないんです。熊さんが私の挨拶を受けていれてくれているんだと思っています。

私の小学校の同級生の一人は奥会津只見の山でで昔熊狩りをした秋田またぎの一員です。熊を神としてあがめ尊敬し銃で撃つ前も撃ち取った後も祈りをして狩りをするといっていました。なんか矛盾しているようにも思えますがそれが秋田またぎの熊狩りの信仰であり礼儀なんですよね。私はいつも秋田またぎの仲間になった友からこのことを聞いていました。熊は尊敬しなければならない山の神さんなんですよ。

山は楽しいけど怖いこともあるんです。私は60歳定年で現職を離れた頃若気の至りで2度ほどスキーをはいてこの写真の雄国山系に一人で登りました。3月まだどっしりと雪が山に積もっていた頃でした。夏期車の通る登山道路だけでなくて斜面の雪の近道もスキーをはいて登りました。頂上の雄国沼周辺は広々とした綺麗な雪原でした。そこに幾筋ものスノーモービルの走った跡がありました。今は禁止されているんでしょうけど当時は裏磐梯の猫魔スキー場から訪れることの出来る格好のスノーモービルを楽しむ場所だったんでしょうね。

2度目の登山の帰り道、私は恐ろしいことを経験しました。その日は硬い雪の上に10cmほどの新雪が積もっていました。その雪の積もった急な斜面をなにげなくスキーで斜めに滑降したのです。そしたら積もっていた新雪の面が切れたのです。そしてその切れた雪の面が表層雪崩になって40mほど下に勢いよく落ちていきました。

私は子供の頃小立岩という福島県側尾瀬沼登山口檜枝岐村の隣の集落に住んでいました。集落の人たちはみな表層なだれを「えい」といって恐れていました。底崩(そこなだれ)は狭い範囲の雪崩れだから怖くないけど、「えい」は激しい吹雪のあと突然高い山から落ちてきて「七谷を越えて」村を襲うから恐ろしいといわれていました。事実檜枝岐村の入口に会津駒ヶ岳からの大きな「えい}が襲ってきて道のある谷をふさいでしまい檜枝岐村が何日も孤立してしまったことがありました。「えい」は恐ろしいと口癖のように古老から聞いていました。

私の起こしてしまった表層なだれは積雪が僅か10cm距離は40mほどの小さなものでした。でも小さくとも「えい」に違いはありません。私はそこに腰をおろしてしまって怖さにふるえていました。山は楽しいけど怖い。それを実感した私はそれからは山歩きには充分に気をつけ無謀なことはしなくなりました。

雄国山系の初冠雪からいろんな思いが浮かびました。若い頃は私も元気でした。でも90歳になって思うこともあって免許証を返納しました。今もそれは正しかったと思っています。でも50年慣れきっていた車の暮らしが突然車のない世界に変わってしまうんです。その心理的影響は強烈です。自分の老いが、自分の体力そして知力の衰えが身にしみるのです。だからもうブログの投稿も止めようかとも考えていました。

ところが数日前、近くの会津高田町ご出身で現在秋田にお暮らしになっていらっしゃる62歳のお若いSさんという方が私ブログを見ていて下さっていて、私の家の脇を通る県道を通られた時、あれこの道の風景はどこかで見たことがある、そうだここはさんたろうさんが二階の窓から撮ってブログに投稿した場所なんだ、するとこの場所のこの家はさんたろうさんの家なんだ、ということで突然に私の家に「ここさんたろうさんのお家ですか」と訪問してくださったのです。

陋屋老体の私と家内の家ですびっくりして恐縮してしまいました。私がもう年で惚けたのでブログを止めようかと思っているというと「まだお若い80歳台に見える、ブログを止めないで下さい」とおっしゃるのです。おべんちゃらと分かっていてもそこはお人良しのわたしです。「そうか私はまだ若いんだ。それではこれからは80歳になったつもりでもう少しブログをがんばってみようか」などと思いこんでこんな駄文を書いてしまったのです。お笑い下さい。アホですねお恥ずかしいです。

遠い日の思い甦らせる街角私立博物館

2017-11-20 | 日記
私たちの町にはあまり人の目に止まってはいませんけど、古い時代に使われていた[ガラクタ」(今は無用になった古物)を集めて無造作に軒下に並べてあるお家があるんです。



私はここを「街角私立博物館」とよんでときおり訪れて思い出を楽しんでいるんです。どんな方がこんなことをなさっているのか私は知りませんし、また家の中にはどんなものが保存されているのかも知りません。でも私はときおりここを訪れてしみじみと遠い昔を懐かしむのです。


陳列されている主な物を見てみます。まず右端しの部分です。



右から商売繁昌の店に飾られていたであろう大きな陶器像の「布袋様・招き猫・ガマガエル・大黒様・タヌキ」が並んでいます。

スカートをはいた大きなお耳のネズミのキャラクターはミッキーマウスですよね、私の生まれた1927年(昭和2年)の翌年アメリカの銀幕に登場したんだそうです。

そして居酒屋さんの看板「鮭鮫鱈鯉」です。私はてっきり魚屋さんの看板と思っていて笑われました。お恥ずかしいです。


そして左端の部分です。


 右下に馬鍬(まぐわ)が見えます。馬に引かせて田植え前の代掻きに使ったんです。私は小学校4年の頃から鼻取りと言って馬の口に竿をつけて田んぼの隅々まで代掻きが出来るように馬を誘導しました。代掻きをする祖父に「さんたろうは上手だ上手だ」とおだてられて得意になって鼻取りをしました。素足で田圃をあるくんですよ。あの頃の百姓の足は象の足のように皮が厚くなっていて砂利道でも平気で素足であるけたんです。でも鼻取りが終わっておかにあがると1~2匹の蛭(ひる)が吸い付いていました。痛くもかゆくもないんですけど蛭を取ると赤い血が流れました。でも慣れて平気でした。

大小2台の馬橇があります。もちろん当時は大型除雪車などありません。踏み堅められた道を馬橇が運搬に使われたんですね。

写真でははっきりしないんですけど、手押しの除草機が数台並んでいます。先に車のついたこんな手押し車です。ネットから写真を借りました。


田植えか終わって苗が活着すると私たち昭和初期の百姓はみんなこの除草機をおして中耕をかねて除草をしたのです。除草機ころばしが終わると今度は田圃の中を這いつくばって手で除草をしたのです。暑い陽射しの中汗いっぱいの顔を拭くことも出来ず苗の葉先が目に入って痛いし、手も疲れて痛くなります。苦しい作業でした。でもみんな苦しさに耐えて仕事を続けました。


この家の脇の壁には古い時代の看板を集めたコーナーがありました。

 
ヤンマーバインダーっていうのがありますね。バインダーって言うのは当時にとっては素晴らしい革命的な機械でしたエンジンのついた機械で稲を一条ずつ刈り取って束ねる機械でした。家の鍬頭(くわがしら)の人がこの機械を使って稲を刈り、私らは鎌で刈り取って束ねていました。バインダーは手刈りの何人分も刈り取って束ねるので素晴らしい機械が出来たと思っていました。

たばこの看板がありますね。当時は煙草販売の許可を貰った家だけがこの看板をつけて煙草販売をしていました。なんとかなんとか煙草屋さんの看板娘なんて歌があったような気がします。

そしてあたしの一番懐かしかった看板はこれです。箱形の懐中電灯です。後ろの蓋を開けて単1の電池を2個入れてつかいました。



私はこの看板を見ると80年ほど昔、つまり10歳前後の子供の頃のホタル狩りの夜を思いだすのです。初夏ホタルが飛び交う夜私たち子供はみんなでホタル狩りをしました。街灯などありませんから夜は本当に真っ暗なんです。お金持ちの子供は最新式の箱形の懐中電灯を持って、わたしたち普通の家の子供は丸形の提灯にろうそくの火を入れてホタル狩りに出ました。箱形の懐中電灯の光はまるで稲妻の光のように明るく輝いて私には見えました。うらやましかったんです。

あの頃は小さい光の平家ホタルと大きな光の源氏ホタルがいっぱい飛び交っていました。捕ってきた蛍を蚊除けの蚊帳の中に放して灯りを消して楽しみました。そういえば私が小学校低学年の頃の古里小立岩集落には電気がはいってなく石油ランプでした。

街角博物館は一見ガラクタが無造作並べてあるだけのように見えますけど私にとっては懐かしい思いでが次から次から湧いてくるとっても大事な博物館なんです。書きたいことがいっぱいで目をつむるとウルウルしてきます。でも疲れました。今日の夜はこのへんで止めようと思います。

駄文をここまで読んでくださった方がもしいらしゃったら嬉しくて厚く御礼申しあげます。ありがとうございました。