さんたろう日記

95歳、会津坂下町に住む「山太郎」さんたろうです。コンデジで楽しみながら残りの日々静かに生きようと思っています。

いま去っていこうとしてる私の20014年(Ⅰ)

2014-12-30 | 日記
 振り返って見ればそれなりに元気に生きてきたと思う20014年87歳の私の一年でしたけど・・11月28日、大事な心の友でもあった弟を膵臓癌の長い闘病生活の末に亡くしてしまいました。呆然として心を失い疲れ果てていたところに突然に帯状疱疹の激しい痛みに襲われ2週間通院しながら耐えてきました。そしてようやく痛みが薄らいだと思った時にまた軽い風邪に罹患して咳と鼻水に苦しみました。

 疲れ果て、気力も体力も衰えて散歩する楽しみも、撮る喜びも、ブログに投稿しようとする意欲もすっかり消え失せてしまった私の2014年の12月でした。

 2014年の私の年はいま過ぎ去ろうとしています。そしてすぐそこに2015年88歳の私の新しい年がやって来ようとしています。疲れ果てた20014年ではありましたけど、今は心を切り替えて新しい年の生き様を考え心を立て直さなければならないと今は思っています。そのためにも心静にいま過ぎ去ろうとしている20014年を振り返って見たいと思い立ちました。その中に新しい年を迎える心のなにかを見つけることが出来るかも知れないと思ったからです。


 2014年元旦、それは強烈なダメージに襲われた私の元旦でした。

 元旦、私は年始めの恒例で朝早くばばちゃん(家内)と一緒に町立の温泉糸桜里の湯に行きました。私は家内を温泉において独り塔寺の心清水八幡宮と立木観音の初詣をし初撮りを楽しもうと車を温泉において徒歩で約1km程の塔寺に急ぎました。元旦の塔寺の駐車場は満杯で混雑し車の動きはとれないことを知っていたからです。

 初詣を終えて晴々とした心で新年の広い浴場につかり体を洗っていたときのことです、突然に激しいめまいが襲ってきたのです。広い浴場の高い天井が地球と一緒になって時計と反対回りに激しく廻り始めたのです。私は床にしがみついて激しい嘔吐に苦しみながら耐えていました。「ばばちゃ~ん」と必死に家内を呼ぼうとしましたけれど声にはなりませんでした。

 周りの方たちはすごく親切でした、たくさんの方が集まって下さりご自分のバスタオルを持ってきて私をつつみ温泉の係の人を呼んでくれました。そして係の方の適切で素早い処置で私は裸のまま毛布にくるまって救急車で病院に搬送されたのです。元日であるのに病院の救急センターの先生や看護師さんはすばやく優しく親切に処置して下さいました。私は深く感謝しながらも激しいめまいと嘔吐に苦しみながら耐えていました。

 病名は「良性急性頭位めまい」という長い舌を噛むようなような名前でした。良性とあるように命に関わるようなことのない内耳の急性異常による病いで特別な治療方法もなく自然治癒を待つほかないと告げられました。三日ほどの入院で退院することが出来ました。

 私は改めてたくさんの方の温かい援助や温泉の係の方の適切な処置、そして元日にもかかわらず心を尽くして処置して下さった救急車や病院の方々、そして家内や息子たちの温かい心などを思い感謝しても仕切れない気持ちでいっぱいでした。 

 
そして帰宅してPCで初詣に撮った写真のカットを見ればそれなりの写真が撮れていました。




 
一月14日の坂下初市の大俵引きの様子も元気にとることが出来ました。


 カメラを構えて熱写されてる方は福島市からわざわざお出でになった方で楽しい時をご一緒させて頂きました。

 元旦の強烈なダメージに襲われた2014年でしたけど、前半の7月までの私の2014年は元気いっぱい輝いていました。

1月15日の私の集落の歳の神のどんど焼き


 
毎月の町の軽トラ朝市


 
6月のお田植え祭りの伝統の早乙女踊り


 
里山の尾根道の散策


そしてきれいな山野草やチョウや蜻蛉










 






20014年前半の私は元気に輝いていたんです。

いま去っていこうとしている私の2014年(Ⅱ)

2014-12-30 | 日記

でも、7月21日の朝突然に激しい高熱を伴った恐ろしい病いが私に襲いかっかってきたのです

 その日の朝、私はいつものように自分の朝の仕事をこなしいつものように朝ドラを楽しみながら朝食を終わり、いつものように二階の部屋のPCの前に座りました。でもどうしたことか、指が思うようにキーボードの思うところにいかないのです。指先が震えているんです。茶の間に降りて検温して見ると37.5℃になっていました。そして指が激しく震えているのです。それをみたばばちゃん(家内)の反応はす早くてすぐに息子を呼んでいやがる私をむりやり病院に送りました。

 車の中で体温は38℃を越え病院に着いた時は39℃ちかくなっていました。すぐに造影剤CTの検査、そして内視鏡検査処置室に運ばれ麻酔剤を飲まされなにかを嗅がされると私の意識は消えました。目覚めた時私は病室で寝ていました、細いプラスチックの管が鼻から通され点滴のボトルが二つも腕に繫がれていました。しかも腕は強くベットの枠に結びつけられていました。麻酔が覚め始めたとき無意識に鼻から通されている管を引き抜かないようにするためだと看護師さんに言われました。息子の話では胆管の奥が化膿し高熱になっていて危険だったとのことでした。

 つぎの日の朝消化器科主任の先生とお若い二人の先生がご一緒の回診がありました。「胆管の奥に化膿した膿たまりがあって内視鏡で取ろうとしたけど、胆管の途中にステント(小さな管)が二つも入っていて内視鏡が届かず膿だまりを取ることが出来なっかった」と告げられました。10数年前胆管炎で入院していたとき胆汁の通りをよくするためにステンとが挿入されていたのです。

 10数年前、激しい高熱の胆管炎で3ヶ月程入院治療を受けた時「完治ではないけども」と告げられた上で退院を許可され、その後1~2年に一度は発熱して入退院を繰り返していた私です。高熱に朦朧とした頭で、ああ今度こそこれは最後の入院になるのかもしれないと思いました。

 少し涙ぐんでいる私に息子たちは「爺ちゃん大丈夫、また必ず山の尾根道を楽しむことができるから・・」と励ましてくれました。でも私は突然の発病に「やり残したことがまだある、まだ死にたくはない。せめてあと一年は生きて戻りたい」と必死に思いました。携帯を持っていかなかっなかった私は高熱に朦朧とした頭で公衆電話室までようやくたどりつき電話にしがみついてばばちゃんを呼んで「死にたくない、あと一年、いや半年でいいもう一度だけ生きて帰りたい」とつぶやくように叫びました。ばばちゃんは「やってもらわなければならないことがいっぱいある。生きてかえって欲しい」と涙声で応えてくれました。

 それから数週間、若い主治医の先生や看護師さんの優しい励ましと抗生物質の点滴の治療が続き高熱も少しずつ改善されて来ました。でも37℃台から下がることはありませんでした。ある日'主治医の先生からもうすこし熱が改善されたら腹部に針を刺して検査治療をすると告げられました。一週間ほどしてその日がやって来ました。手術室には主治医の先生ともう一人の若い先生と看護師さんが数人いらっしゃいました。お二人の先生はそれぞれのモニターをみながら手術を進めて下さいました。局部麻酔はされていましたけれど「痛い!」短い時間でしたけど深い痛みに私はうなり声をあげて耐えました。「終わりました」先生の声に私は体か軽くなってすがすがしい気分になっている自分に気づきました。見ると先生の手には太くて大きい注射器が握られていてそのなかにどす黒い血がいっぱい詰まっていました。お二人の先生はそれをみたり嗅いだいして話し合っていらっしゃいました。私はステンとの奥の化膿していた膿のかかたまりがとり除かれたことを知りました。

 
 それから一週間、すっかり平熱になって心も体もすかり軽やかになって私は退院することができました。私は若い主治医の先生の新しい治療方法で完治し新しい命をいただくことが出来たのです。退院する日ナウスセンターでお礼を申しあげると居合わせた看護師さんがみんな笑顔で祝福してくださいました。いつもなじんで励ましてくださった若い男の看護師さんはいつものように笑顔で私の手と手を会わせ打ちして「おめでう」といってくれました。私は流れる涙をかくすことができませんでした。

いま去ろうとしている私の2014年(Ⅲ)

2014-12-30 | 日記
 1ヶ月余りの入院生活で私の体重は62kgから56kgに6kgも減っていました。8月23日の退院でした。退院したばかりの私は家から20m程の距離の鎮守様、そして30m程の距離でいつもお世話になっているお隣の家までもようやく歩ってお礼にいくことが出来るような状態でした。気力も足腰もそれほどに弱っていたのです。

 退院してから何度もばばちゃんと糸桜里の湯に行って楽しみました。でもおとなしくしていて近くの里山への道などに足を向けることなどはありませんでした。でも2週間ほど過ぎた9月7日、ばばちゃんを糸桜里の湯においての帰り道ばばちゃんには内緒でこっそりと山の道に足を運びました。一歩一歩数えながら50歩ほど距離にして30mほどをゆっくりゆっくりと山の道を登りました。初秋のススキを通して見える会津野が美しかったです。「ああ、おれは生きていた、そしてまた山に登れた」たった30m程の山の道でしたけど私は嬉しくてたまりませんでした。私の名は「山たろう」なんですから・・・。



 そして3日後、私はまた一歩一歩数えながら100歩ほど、距離にして70mほどのスキー場の坂をゆっくりと登りました。スキー場に咲いているキキョウの花を見たかったのです。小さくて軽いニコンのコンデジを持参していました。「お帰りなさい」美しいキキョウの花が迎えてくれました。山たろうの命が甦ったのです。幸せいっぱいの秋の山でした。



 そしてはっと気がついたのです。6kgも体重の減った私は身軽になっていたのです。70m程の急なスキー場の坂の道をほとんど息切れもしないで一気に登っていたことに気づいたのです。嬉しかったんです。

 私は家内に内緒で山の尾根道を登る距離を少しずつ少しずつ伸ばしていきました。10日も過ぎる頃には取り上げ峠の頂上までも一気に登り切る程に体力が回復していました。私に再び輝く山の道が生きかえったのです。




里山の尾根道ではたくさんの秋の山野草の花が迎えてくれました。









 9月の秋祭りでは祭り囃子の笛太鼓に胸を躍らせ、子どもたちの「や~っこやれやれ・・」と元気な声で太鼓台を引く子どもたちの姿に嬉しくてうっすらと潤む目でカメラのレンズを向けました。



 そして10月の末日私はスポーツドリンクに昼食、そしてマクロレンズに中望遠レンズの入った重いバックを肩に標高465mの旧越後街道束松峠の道を登り切り美しい紅葉の山を楽しむことが出来たのです。





 しかし11月、充実して輝いていた思っていた私に悲しい思いが襲ってきたのです。幼い頃から心が通じ合い互いに頼りあってきた3歳年下の弟の病状が悪化してきたのです。昨年膵臓ガンの手術を県立病院で受け病状が好転していたと信じていた弟が車で2時間もかかる遠い奥会津から再び県立病院に再入院してきたのです。県立病院は私の所から車で10分ほどの所にあります。気落ちしている弟に私はほとんど毎日病院を訪れ幼い頃からのことや両親のこと、古里のことなをど語り合いながら弟を見舞いました。弟も毎日それを楽しみに待っていてくれました。

 そしてやや病状が安定したということで弟は古里に帰りました。でも膵臓ガンの末期です。2週間も過ぎたある日弟の息子から「父の病状が悪化してガンがあちこちに転移してもう手術もできないと町の診療所の先生に告げられて町の診療所に入院している」と告げられました。私は毎日でも'訪れて弟を慰めたいと思いましたけど2時間の距離の車の遠乗りは家人にきつく止められいました。やむなく息子の'運転で2度、そしてタクシーで家内と一緒に1度訪れて言葉を交わしました。そしてそれが最後の訪れになりました。その数時間後に弟は亡くなったのです。11月28日午前3時でした。

 私は弟を失った悲しみにうちひしがれ、長い看病や葬儀に疲れ果てて帰宅してもその気落ちからしばらくは立ち上がることが出来ませんでした。そんな疲れ果てた私に突然帯状疱疹の激しい痛みが襲かかり2週間苦しみました。ようやくその痛みが薄らいだとおもった時に軽い風邪の症状が出て咳と鼻水に苦しみました。

 それでも数日はブログの投稿は続けました。でもそれは散歩も出来なかった私です。遠いに日に撮った写真を撰び出し少しの感動も思いもないのなにがしかの思いがあったようなウソのコメントをつけた偽りの投稿をしていたのです。そんな自分に嫌気がさしてもうブログなど止めようと思い12月16日からぷっつりと投稿をやめたのです。

いま去ろうとしている私の2014年(Ⅳ)

2014-12-30 | 日記
 ひととせの思いを記し終わって風邪の咳もわずかですがようやく治まったように思います。明日は行く年2014年87歳の私の年をおくり、明後日は来る年2015年私の88歳の私の年を迎えます。弟を亡くした喪中の身ですけど亡くなった弟は私の心の中で生きております。心の中の弟とともに新しい年を迎えたいと思っています。そしてまた新しい心でブログも楽しもうとも思っています。

 でも、もうつっぱった大仰な思いでブログへの訪問者数や閲覧数などを意識して投稿することは止めようと思います。素直な心で小さな自分の歩みを自分の心に語りかけるように、ささやかな写真と言葉で日々の思いを記していこうと思っています。

 そして新しい年の日々を嬉しかったり、悲しかったり、くじけて絶望したり、時には怪しげで秘やかな思いに迷ったり・・などなどしながら素直に生きることを楽しみたいなどとも思っている私です。2015年88歳のボケ爺いの私の年がどんな年になるんでしょうか楽しみにしているんです。