「石油ランプで暮らしていた集落に電気がきた嬉しい! 」
そんな経験をした人など今はもう居ないでしょうね。でも私は小学校2年7歳の時それを経験しているんです。昭和7年(1934)の年でした。
石油ランプで暮らしていた集落のそれぞれの家ではランプの石油を倹約する為に早々とランプを消して 眠ります。集落の夜は真っ暗闇なんですよ。「草木も眠るうしみつどき」という言葉がありました。
「うしみつどき」といのは古い計時法で現在の午前2時から2時30分の頃の時刻にあたります。つまり「うしみつどき」にはすべての生き物は眠ってしまって、「魑魅魍魎(ちみもうりょう)がさまようているということです。
魑魅魍魎というのは化けものや幽霊なぞのことです。つまりその時間帯ではお墓には燐の青い火が静かに燃え、この世に恨みを残す幽霊が姿を見せ、きつねやタヌキが人を馬鹿そうとうろつくということなんです。ランプで暮らしていた子供の私などその言葉を信じて夜を恐れていました。
そんな集落に暮らしていた小学校の2年の私は集落に電気が来るということを聞いて嬉しくてたまりませんでした。
小立岩の隣の集落は大原、その隣は内川の集落です。その内川の集落に水力発電所が出来きて大原や小立岩や大桃の集落に電気がくるというのです。
送電の工事はどんどん進んできました。杉の木の柱の電柱が立てられ、上部の横木の白い碍子に二本の電線が張られていくんです。それぞれの家にも安全器を通して配線され電灯がつけられるのです。その頃の工事はおおらかでした。興味いっぱいの子供たちが群れて工事の様子を見ていてもじゃもの扱いはしませんでした。電柱に登って電線を張る人。電線のつなぎ目に融かしたはんだ(鉛の合金)をつける人、私たち子供はすべての工事に興味しんしんで見ていました。
わたしなど家に帰って母の裁縫箱から木綿糸をいっぱいとりだし家の後ろの木の枝につないですっかり電気工事人になったつもりでうっとりしていると、母に見つかりこっぴどく叱られたりしました。
さて送電工事が完成して今日の夕方には電気が来ると言う日、集落の人はみんな道に出て隣の大原の集落を見つめていました。電気は電線を通って水が流れるようにやって来るんだから大原まで流れてくれば間もなく自分の集落にも電気が流れてくるはずだと思っていたのです。
大原に電気がついたのを見た小立岩の人達はまもなく自分の家にも電気が流れてくるだろうと自分の家を見ました。するともう電灯が明るくついていました。人々は争って家に帰りました。
「電灯の灯りはまるで昼間のようだ。」そのとき子供だった私の感動です。
その電球のタングステン線はコイルに巻かれているのはなくって電球の中にW字状になって光っていました。何ワットではなくって何燭光といっていました。
電灯のついた集落は一変しました。ランプに変わった電灯はそれぞれの家の夜を真昼のように明るくしました。街灯もついて夜の闇の道路も明るくなりました。
そして集落をまとめていらっしゃった「しろへい」さんの家にラッパのようなスピーカーのついたラジオが入りました。
でも当時の放送局ははたしか上野の愛宕山の1局だけだったように思います。昼間は届く電波が弱くてほとんど聞こえませんけど夜には電波が強くなりラジオがよく聞こえるよになり、「しろへい」さんの家に集落の人がみんながあつまりラジオを愉しみました。
ランプ生活の集落に電気がきたことは革命的なできごとでした。
電気は人の心を目覚めさせたのです
発電所も大きくなりラジオなどの機器も改良され、それぞれの家にみなラジオが入り「しろへい」さんの家に固定電話が入り、木材から板をつくるのに「大鋸(おうが)」と言われる幅が50cmもある大きな鋸で人が材木をひいていたのが「電動の機械の製材所」で製材されるようになり、籾米を土するす(どするす)でひいて玄米にし臼でつい白米にしていたのが電動の精米機で白米にするようになるまでそう時間はかかりませんでした。
ランプ生活の集落に電気が入ったのはほんとほんと革命的なできごとでした。電気が入ったことで大変な変動が集落の人々に起きたのです。「丑三つ時」もすっかり明るくなって魑魅魍魎も姿を現さなくなりました。人々の考えや労働の姿がすっかり変わってしまったのです。
私の小学校2年の時の思い出です。
(土するす=土で作ったすりうす。籾を手回しでひいて玄米にする。)
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