さんたろう日記

95歳、会津坂下町に住む「山太郎」さんたろうです。コンデジで楽しみながら残りの日々静かに生きようと思っています。

野の花を求めて歩む山の道

2014-04-30 | 日記


 取り上げ峠からスキー場頂上へ向かう最後の急な坂道です。ゆっくりゆっくり時間を掛けて登ります。登り切ると視界が急に開けます。

 咲き送れた柴さくらの小さな花が咲いていました。絢爛と咲くソメイヨシノもいいですけど、山に咲く素朴で小さな柴木の桜にも私は心惹かれます。


 そして季節に遅れたカタクリの群落が待っていてくれました。嬉しかったです。レンズを50mmマクロに切り替えていっぱいシャッターを切りました。





 
懐かしいスキー場リフトの頂上です。坂下の町がかすんで見えました



 雪質は重くて悪かったんですけど車で10分でゆける楽しいスキー場でした。それなりの思い出がいっぱいありますよね。若かったんですから。スポーツドリンクを飲みながらいろんな思い出を懐かしみました。

 暖冬でスキー場が閉鎖されてからはこのコースを愛犬マルと一緒によく歩きました。あの頃40分コースだった今はゆっくりと3時間コースです。

野の花を楽しみながらの山の道です、老いの生き甲斐の道なんです

ほんとうの温泉が空の近くにありました

2014-04-29 | 日記


 昨日突然に、ばばちゃんと息子夫婦が相談して福島の野地温泉に行くと言うんです。出嫌いな私も有無をいわせず息子の車に乗せられました。

 
そこは標高1200m、磐梯吾妻スカイラインの入り口近くにあるホテルでした



 
周りはまだ深い残雪の林で



 
ようやく春の緑が残雪の消え間に見えていました。標高12oom野地温泉は早春でした



 駐車場からは遠くスカイラインの道筋が見えていました



 福島土湯温泉への下り道です。高い山ですけど名前はわかりません



 ホテルの脇からは湯気を立ち上らせて源泉がわき出ていました。懐かしい温泉のにおいがいっぱいしてました。



 浴場は静かでちょっと鄙びた感じのする浴場で露天風呂に続いていました。温泉は牛乳のように白く濁ったやわらかい硫黄線でした。


 
太い丸太をくりぬいた樋から温泉が豊かに流れていました。すべて源泉掛け流しだそうです

 

 露天風呂では各地からおいでのもちろん初対面の五人なんですけど、なんとのう話が弾みました。息子が私の年齢とブログのアドレスをいうと皆さん楽しみに見たいとおっしゃってくださいました。そして快くコンデジのレンズを向けることを許してくださいました。嬉しかったです。みんないい方ばかりでした。
 
 私はひとつの浴場しか入りませんでしたけど、ばばちゃんの話では大小いくつかの浴場があって熱いお湯から順に普通のお湯までの浴槽があるとのことでした。

 そして広い浴場の天井には奥会津地方の古民家の天井の屋根裏にあるものと同じ男女のシンボルが飾られていて、見事な男根にはきちんとタマタマもついていたとのことでした。
 
 明るく元気なおばあさんが「天井をみてごらんなさい」この温泉に入れば子だからに恵まれるんだよと解説されたとのことです。その日はおばさんやおばあさんばかりだったのでおかしくて笑いあったそうです。男の浴場には大きな天狗のお面しかなかったんですけどね。

 帰り道には野地温泉とは全く反対の方向にある喜多方ラーメンの元祖「坂内食堂」に案内してもらいました。ラーメンじゃなくって「支那そば」とあるのがいいんですよね、50年前に訪れた時と変わらぬ坂内食堂です。


 坂内食堂特性のチャーシュー支那そばです。肉好きの私だけが食べてばばちゃんや息子夫婦は普通の支那そばをたべました。スープも麺も40年前と変わらぬ懐かしい味でした。聞けば化学調味料は一切使わず麺は昔と変わらぬ太麺でした。


 
息子達夫婦とばばちゃんのおかげで思いも掛けない楽しい一日でした
 

見においで、スキー場の水仙がきれいです

2014-04-28 | 日記


 ここは坂下町の町営温泉糸桜里の湯近くの旧スキー湯です。数種類の水仙の花が数千株見事に咲きほこっていています。

 どなたさんのお仕事なんでしょうね。町や糸桜里の湯のお仕事ならそれなりのPRがあると思うんですけど町の広報誌「あいづばんげ」や糸桜里の湯の掲示で見た記憶は私にはありません。

 どなたさんのお仕事なんでしょうね。
 旧スキー場の広い遊休地には毎年違う花の造の造園が行われています。

 
菜の花畑

                                 

蕎麦の花



 こんなすばらしいお仕事をどなたさんがやっていらっしゃるんでしょうね。トラクターや何台かの軽トラで作業をなさっている姿は何回か見ております。町の広報誌なり、近くの糸桜里の湯の掲示などで教えてほしいと思います。

 いまは糸桜里の湯裏の「教育の森」や旧スキー場入り口はしっかりした柵が作られがっちりしたチェーンで冷たく閉ざされています。

 旧スキー場や、教育の森はどなたさんの所有でどなたさんの管理なんでしょうね。入ってはいけません!!・・厳しく冷たい感じです。近くに美しい自然があるのに閉ざされているのです。

 私は悪いとは思いながら何日か前に、旧スキー場隣の沢の奥の射撃跡に咲くカタクリの群落を撮りに行こうと思って入山しました。

 そのおり、40歳前後の男の方がお一人まだ蕾の水仙の花畑をじぃっと見てらっしゃるのにお会いしました。水仙の花畑を造営されているお一人かなと思い。私は旧スキー場周りの豊かな自然、低地型日光キスゲの小群落・春のイワカガミ・秋の萩の群落・キキョウやオミナエシの花などについてお話しました。その方はあそこは国有地で私たちには手がだせなにのですとおっしゃいました。

 そしてこの旧スキー場を福島の花見山のようにしたいともおっしゃいました。
 近くの見明の方ですかとお聞きすると隣の集落ですとおっしゃいました。上宇内のお方なんでしょうか。

 私はこのようなすばらしいお仕事をなさっている方達のことを町の広報誌や糸桜里の湯掲示でみんなに知らせてほしいなと思いました。

 いまはスキー場入り口の鎖は外されています。糸桜里の湯においでになった方などいま美しく咲き誇る水仙の花園をごらんなされたらいいなと思っています。花園が皆さんで賑わってほしいと思っています。」                                                                                                                                                                           

ささやかな小さな社(やしろ)の物語 桜の花がきれいです

2014-04-26 | 日記




 昔、みちのくの雄「安倍貞任 (あべのさだとう)」は東北六郡の地に勢力をはり中央の政府に対峙して栄えておりました。

 その頃、この小さな集落(当時は村)蛙田の隣の村宇内には縁あって貞任の娘「おさわ」が住んでおりました。たいそう美しい娘で村人は皆あがめかしずいていました。

 かつて60数年前頃までは日本はもちろん世界中に癩病(らいびょう、現在はハンセン病)といわれる恐ろしい病気がありました。いまは特効薬ができて日本では根絶しましたが、罹患すると少しずつ少しずつからだが膿みただれ溶けてゆきやがて歩行もできなくなり死んでしまう恐ろしい病気です。

 可愛そうなことに、この美しい娘はライ病に罹患したのです。少しずつ少しっずつからだが崩れていく恐ろしい姿に村人は一人去り二人去りしてついには、この娘を塔寺村の沢の奥に捨てました。

 いまでもその沢を「どすが沢」と呼んでるそうです。会津では昔ライ病のことをどすと呼んでいたのです。

 蛙田村の人達はそれを哀れに思い娘を沢の奥から助け出し、村の北の地に小屋を作って住まわせ心を尽くして看病して看取りました。

 村人の暖かい心に感謝した娘は亡くなるときに「私はこの地の神となっていついつまでもこの村の子供の幸せを守ってあげます」と言い残しました。

 そして村人達はこの地に地蔵尊を祀り大沢権現と称して子供の幸せを祈るようになりました。やがて大沢権現に参詣する人も増えてきましたが供物やお賽銭はすべて子供に分け与えられ子供のために使われ、村の子供達はすこやかに幸せに育つようになりました。

 明治になって初年、神仏混淆が禁じられ大沢権現は大沢神社と改められいまに至っても信仰が続けられております。

蛙田の集落に語り継がれている大沢神社の縁起の物語です


 またこの神社の境内には大きな石の柱に十二神将と書き彫られたものがあり人目を引いております。十二神将と言えばお薬師様の周りの恐ろしい憤怒姿の12の仏の眷属です。私はなぜ神様の大沢神社に仏の薬師如来の眷属の十二神将があるんだろうと不思議に思っていました。

 でもこれは車を運転しながらちらと見たための間違いでした。
 12神将ではなく「12神 祠」でした。つまり12柱の神様を祀った祠と言うことだったのです。



 祠には天保十二年(1841)丑三月吉日 世話人嘉兵衛 喜左衛門 当村氏子一同と記されていました。



大沢神社の地にはもう一つ別な言い伝えがあってこの12柱の神様を祀る社があったのです。昔この村と隣の塔寺の間に土地の境界についての激しい争いがありました。

 小さな村の蛙田村は大きな村の塔寺村にいつも負かされ苦しんでおりました。あるとき村人達が集まってそれを嘆き悲しんで対策を話し合っていると十二人の旅の人がやってきて村人を助け見事に塔寺村を破り勝利しました。村人が村に帰って勝利の宴を催そうとすると十二人の旅人達の姿はかき消すように見えなくなってしまいました。

 村人達はこれは12柱の神様が旅人に姿を変えて蛙田の村を助けてくださったのだと悟りました。そしてこの大沢権現の境内に12柱の神様のお社を建て厚くお祀りしました。
                 
 その後蛙田村では他村との公事訴訟があると必ず必ずこの12神の祠にお参りして必ず勝利したと言い伝えられています。

 こんな小さな集落のこんな小さな社にこんな言い伝えが語り継がれいまに生きていたのです。

 
この物語は井関敬嗣先生の「会津坂下の伝説と史話」によりました